「カラマーゾフの兄弟」と新訳ブーム

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 近頃ドストエフスキーの名前をかなり頻繁に、新聞の書評欄や広告欄で見かけます。

 光文社が古典の新訳文庫というものを出版しており、そこへロシア文学者である亀山郁夫さんの新しい翻訳で「カラマーゾフの兄弟」を出したところが、翻訳者はもちろんのことだろうが、出版社も予想していなかったであろう大変な売れ行きとなっている。

 今朝の朝日新聞に出している光文社の広告によると、文庫1~4巻と別巻をあわせた5巻で、これまでに「36万9000部突破」とある。
 この種の古典文庫では、まさに異例な大部数だろう。立派なベストセラーである。


 いま、「新訳」がしずかなブームであることは、わくわく亭も気がついている。

 出版各社には、海外の古典的作品を、現代の最新の解釈と現代的な文体で翻訳し直して、新しい読者を獲得しようという動きがあるようだ。

 たとえば、J.D.サリンジャーの「The Catcher in the Rye」を村上春樹さんの手で「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(旧訳は野崎孝さんの『ライ麦畑でつかまえて』)というタイトルにして新訳本が出された。
 僕も読んだが、村上新訳の方が、リアルに感じられて、こちらに軍配を挙げたね。若者を主人公にした小説を得意としている村上さんの文体が、この翻訳によく適しているようだ。

 村上さんはフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」(またしても野崎孝さんの訳本が新潮文庫にある)を新しく翻訳して中央公論新社から出した。
 この翻訳でも(わくわく亭もまた学生時代はフィッツジェラルドの大ファンだったのであります)、野崎さんには悪いのですが、村上新訳の方に軍配を挙げます。

 ついでのことに、レイモンド・チャンドラーのハードボイルドの傑作「THE LONG GOOD BYE」の翻訳についても言及しておこう。

 この本については、早川書房から清水俊二さんの翻訳で出されたものが、われわれチャンドラー・ファンにとっては定本だった。名訳と呼ばれて久しかった。

 そこへ、上の新訳本で成功をおさめた(まるで若者のアイドルでもあるような)現代作家村上春樹さんが、先行してすでに名訳の誉れも高い清水俊二訳に挑戦して、2007年7月に「ロング・グッドバイ
の書名で、じつに半世紀ぶりに新訳本を、清水さんとおなじ早川書房から出版した。
 はたして、軍配は清水俊二か、村上春樹か、軍配は何れに挙がるのか?

 こうした村上春樹の翻訳小説については、わくわく亭は新コーナーを設けて、論評したいと考えているので、この場ではごくごく簡略に言っておきますが、清水俊二に軍配を挙げました。

 清水さんはアメリカのミステリーの翻訳ばかりではなく、アメリカ映画の字幕スーパーの仕事もやった人で、会話の文章には一日の長があります。ハードボイルドタッチの会話部分は、映画のセリフを書くことで磨かれたせいでしょう、キレがある。
 春樹さんは文学性という角度からは優れているといえる。時代考証、土地勘という点でも、清水訳を凌いでいる。だから、評価は大きく分かれることだろう。

 しかし、チャンドラーは「純文学」をめざして書いたのではないだろう。
 読者もまた「純文学」をチャンドラーに期待してはいない。ハードボイルドな文体で描き出される、タフなアメリカの探偵を期待しているのである。


 
 はて、さて、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」新訳について書くつもりが、横道にそれてしまった。

 「カラマーゾフの兄弟」はドストエフスキーの数ある傑作の中でも最高の傑作とされてきた。

 われわれはこの作家の作品を読むとして、いきなり「カラマーゾフ」では恐れ多いから、「貧しき人々」から入って、「虐げられた人々」「地下生活者の手記」「罪と罰」の順番で読むようにと、先輩や教師たちから指導されたものだった。すくなくとも、そんな雰囲気はあった。
 つぎに読書力がついてから「白痴」「悪霊」にすすみ、さいごの「カラマーゾフの兄弟」を読め、と教わった。

 それだけの精神的な成長を待ってから読むべき世界文学の最高峰が「カラマーゾフ」であって、知性、教養の未熟なものに読む資格はない、(とまでは言われなかったにしろ)本を読む者に〈心・技・体〉が
そなわらない限り「カラマーゾフ」の哲学的な真理は理解できない、それほど深遠な人間性の真実を書いた書物である、といわれたようなものだった。

 もしも、軽率に「カラマーゾフ」を読んでみて、なんのことやら、チンプンカンプンだったら、「おまえはバカだ」と烙印を押されるかも知れない。
 これは、たいへんだ。うっかり「カラマーゾフ」を読んだとも、読んで面白くなかった、とも告白できないぞ。読んだけれど、どうってことなかった、とか、難解でなにかよくわからなかった、とくに宗教のことが、などと友達に話そうものなら、「おまえは文学を語る資格が無い」と笑われるかもしれない。
 そこで、読んだことは内緒にしておこう、ということにもなった。

 それに、翻訳が哲学書みたいに、難解だったことはたしかだったよ。

 ざっと話せば、「カラマーゾフの兄弟」はそんな存在だった。

 文学といえば、最上のものはロシア文学である、とする風潮が日本には明治時代からあった。
 だから、文学少年や青年は、好きだろうと嫌いだろうと、ロシア文学を翻訳で読まねば仲間はずれにされたね。
 ツルゲーネフの叙情的な恋愛小説あたりから接触して、ゴーゴリトルストイ、チェホフ、そして
ドストエフスキーへと山脈を登るのだった。

 そこへもってきて、社会主義への知識、シンパシーというイデオロギー的な踏み絵があった。
 その踏み絵が踏めない者は、またしても「バカ」の烙印をおされたものだったから、本を読むのもらくじゃあなかったね。
 ドストエフスキー社会主義思想の黎明だと評価したとおもえば、転向者だと貶めたりするし、人間と神との究極の対決だと崇めたりと、小説として、池波正太郎の「鬼平犯科帳」のように、寝っ転がって読めそうもない大変な書物、とされてきた。

 ところがです。
 亀山郁夫さん新訳の光文社文庫本は、家庭崩壊、社会不信、親殺し、暴力、精神の救済、といった、現代人にとっても身近な諸問題を扱った、きわめて現代的な小説だという読み方がされているというのです。
 亀山さんの翻訳が、現代性をもったすぐれた文体なのだろう。

 かんがえてみれば、もともとドストエフスキーだって、ロシアの流行作家であって、内容がきわめてシリアスだとはいっても、読物雑誌とか新聞に連載していたのだから、読むために〈心・技・体〉を要してまるで文学の神様のように高いところへ祭っておくべきものではなかったはずです。
 日本の明治時代には漱石であれ鴎外であれ、代表作品は新聞小説として連載していたもので、状況はおなじようなものだった。

 光文社の新訳「カラマーゾフの兄弟」は、この本を、本来のあるべき場所にもどしたということで、ひとつの功績、手柄だと高く評価したいと思います。


 もうひとつ、ドストエフスキーの名前を「文学界新人賞」の原稿募集で見たことにも触れておきましょう。
 選考委員の一人が島田雅彦さんだった。それはたくさんの応募原稿を寄せてほしい、という、いわば応募者への「檄(げき)」だった。
 手もとにその文章を残していないので、正確ではないのだけれど、こんな意味のものだった。

 ―われわれは世界にすぐれた文学作品を数え切れないほど、すでに資産としてもっている。たとえば、ドストエフスキーの「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」をもったわれわれは、もはや新たな文学作品を書く必要があるのだろうかと、立ち止まりそうになるだろう。そうではない。現代にはわれわれが書かねばならない物語がある。きみたちには現代の「罪と罰」を「カラマーゾフの兄弟」を書いてほしい。それを書くことに挑戦してほしい―

 やっぱり、どんなすぐれた文学であろうとも、神棚に上げていてはいけない。それをのりこえる作品を現代において書いてやろう、という心意気をもちたい。

 わくわく亭は、「ドストエフスキーなんか恐くない」と考えることにしています。

 今日は、ちょっと、かっこいいブログになった。(笑)