「母の詭弁集」から [3]

 『姫路文学』119号に書いた「母の詭弁集」から、91歳晩年の母のエピソードのつづきです。


      《その7》

  外出中の妻の名前を、母がいつまでも呼びつづける。
  91だというのに、びっくりするほどの大声である。

  「まだ帰ってないんだって言ってるじゃないか」
  「どこへ行ったの」
  「実家のお母さんが高血圧で検査入院したから、見舞いに行ったんじゃないか」
  「そうだったかね。いま聞いたことを、すぐ忘れるんだよ。どこへ行ったんだったかね」
  「実家のお母さんが入院した病院だよ」
  「何時にもどるの。あの人が家にいないと淋しくてならないんだよ」
  「もうまもなく帰るから、テレビでも見ていたら」
  「テレビは見たくない」

  そんなやりとりは妻が帰るまで、はてしなく繰り返される。
  やっと妻が帰った。

  となりの部屋から母のうれしげな声がしている。
  「もっとよく顔を見せてよ。あなたがいないから、わたしは淋しかったのよ。もっと、
  そばへ来てよ」
  僕の老母は、つねに母親の姿を追い求めているおさな児になっている。
  「さあさあ、おばあちゃん、わたしはここにいるでしょ。よく見てね」
  「あなたの顔をみると、うれしい」
  「わたしもうれしいわ」
  「あなたが大好きなのよ」
  「わたしも、おばあちゃんが大好きよ。だから120まで生きてちょうだいね」
  「そんなには生きられないよ」
  「おばあちゃんなら大丈夫、生きられるわよ」
  「うれしいわ」
  妻が母を抱きしめてやっているらしい。
  僕の妻の腕の中で、母はいま、おさな児の笑顔をみせているはずである。


  《母の詭弁集》は100話くらいはつづきそうにみえたのだが、あっけなく終わることになった。
  6月のはじめ、胸部動脈瘤が破裂して母は急逝した。

  その朝、母は朝食をとって、自分でトイレをつかい、食後の薬がきいてきて、
 うとうとしはじめていた。
  となりのキッチンとのさかいの戸が開いたままにしてあって、流し台で水を使っていた妻は、
 手を動かしながら母に話しかけていた。
  僕が仕事場へと出た後のことである。

  母の応えがないのをあやしんで、ベッドのそばへ行ってみた妻が、母の異変に気がついた。
  うたたねをしながら、母は遠くへ逝きつつあった。
  妻は救急車を呼んだ。

  救急隊員が駆けつけてくれたとき、母にはすでに意識はなかったが、かすかに脈はあったらしい。
  車内では隊員による心臓マッサージをうけている。しかし病院に到着したときには、心臓は
 停止しており、すぐに死亡の診断がなされた。

  そのほんの2時間前、仕事場へと家を出る僕は、母に声をかけている。
  「じゃあ、行ってくるから」
  「どこへいくの」
  「仕事じゃないか」
  「ああそうだね。行っておいでなさい」
  「それじゃあ」
  「はい。わたしも、もう帰らないといけないし」
  また、はじまった。夕暮れでもないのに。(夕暮れになると、どこへか
 帰る、帰るは老いた母の口グセになっていた)
  「そうだよ。おふくろも、いつまでもベッドに寝てないで、しっかりして、帰らなきゃね」
  いつものように、僕は右手を挙げた。
  なにか母のおもしろい詭弁が聞けるかなと見ていたが、ただおだやかな顔をして、
 母もちいさく右手を挙げた。

   
  母の部屋であった1階和室の畳替えをした。
  畳は電動式ベッドのためにひどくいたんでいた。
  畳はまあたらしくなったが、母が瀬戸内の町からもってきた2さおの桐ダンスがあるかぎり、
 部屋のふんいきは変わらない。
  タンスは60年も母のそばにあったものだ。どちらにも愛用した着物がおさまっている。
  ひきだしをわずかに引くと、さあっと着物のにおいが立ちのぼる。

  その部屋にひとりでいたりすると、ぶと僕は、母が帰って行った場所について,思いを
 めぐらせている。