「母の詭弁集」から [2]

 『姫路文学』119号に掲載した「母の詭弁集」から、晩年91歳の母のエピソードのつづきです。


       《その3》

  僕は浴室で顔を洗っていた。廊下をすっと人影がよぎったような気がした。
  まさか、ベッドからすぐわきの携帯式便器までしか動けないはずの母が通ったのか。
  僕はそっとのぞいてみた。

  はたして、そのまさかである。自分の脚が弱ってしまい、歩けなくなっていることを忘れたの
 だろう。
  うっかりそれを思い出させては危険だぞ。だからといって、このまま見ているわけにはいかない。
 
  母はトイレの前で立ち止まっている。壁ぎわの手すりにもつかまらず、立ち往生だ。
  母はいま、自分が歩けないことを思い出したのだ。

  「そのまま、そのまま」
  僕の手がとどく寸前、母は、
  「あっ」
  とさけんで、くたくたと床の上にくずおれた。


       《その4》

  終日ベッドにいるくせに、テレビの気象情報はよく見ている。
  「おばあちゃん、今日はカサはいらないかしら」
  外出するつもりの妻がきいている。
  「夕方から雨だよ。カサはいるよ」
  妻は折りたたみのカサをバッグにいれて行く。

  「おばあちゃん、きょうの天気はどうかしら」
  今も外出の支度をしている妻が、帰宅時刻の天気を気にしている。
  「夜から雨だよ」
  「青空で、きれいに晴れてるけど」
  「東のほうから雨がきてる」
  「西からじゃないの」
  「東だよ」
  母は西と東ととり違えている。しかし、いったん口にしたからは、ゆずる人ではない。
  「ずっと、ずっと東だよ」


       《その5》

  「わたしはいくつになったの」
  「おかあさんは、いま91ですよ。3月になったら92になるのね」
  「もうそんなになったのかね」

  妻は勘違いをして母の年齢を91だといっていた。息子の僕もそうかと思っていたし、
 母も妻に言われるままに91だと信じていた。

  僕が大阪へ行って兄の家に泊まったとき、兄の義母が区から貰った卆寿の表彰状を見た。
 兄の義母と僕の母は同じ年の生まれである。
  僕らの計算違いに気がついた。

  東京に帰ってくると、僕は母に言った。
  「おふくろ、喜べ。いま90だよ。こんどの誕生日がきて91だ」
  「わたしは90なの。よかったよう。91だといわれていたものだから、
  そうなんだと思っていたんだけど。いつのまに、そんな齢になったんだろうと、
  がっかりしてたから、まだ90ときいて、ほっとした」


      《その6》
      
  未明の4時に、下から母が呼ぶ。母の部屋にだれか行くまで呼びつづける。
  「なんの用」つい不機嫌な声になる。
  「テレビがおかしいんだよ」
  テレビの画面はジャーと鳴って、雑音の電波がながれている。
  「リモコンの変なところを触ったんだろう。あと2時間もすれば夜が明けるんだから、
  テレビはつけないで我慢したらどうなの」
  「テレビが見たいわけじゃない。ただこうしていると、だれもいなくなったようで、
  不安になってくるんだよ」
  「おふくろは、いつもなにかしてないと落ち着かない性格だけど、ぼんやりと、
  なにもしないで休むことも、いいことなんだから」
  「なんだか、あたまがぼんやりしてきて、おかしいんだよ」
  「胸の動脈瘤がやぶれたりしないように、興奮しないで神経を安定させる薬をのんでるだろ。
  そのせいだ」
  「自分がどうなっているのか、なんだかおかしいから、不安になって」

  ベッドから半身を起こしながら、首を左右にゆらせた。大きく見開かれた目が不安の色を
 おびている。
  それが老いるということで、余命が短くなってくると、おのずと不安がわいてくるものなのか。
  母をあわれに思い、ベッドにねかせ、上掛けを着せかけてやり、つよく手を握ってやった。
  母の方からも僕の腕を握りかえしてきた。
  がっしりと捉まえられて、母の握力の強さにおどろいた。
  そこには、なにか必死なものがあった。
  「もうすぐ明るくなるんだね。テレビは消してくれていいよ。蛍光灯はつけたままにしておいて」

  僕が2階の寝室にもどると、暗がりから妻が、
  「ありがとう。おかあさんの声はきこえてたんだけど、起きれなくて」と言った。
  
  ものの5分もたたないうちに、下から母が呼ぶ。
  「どうしたの」
  「淋しかったから」
  「淋しいからと、一晩中呼び起こされていたら、こっちが病気になるだろう」
  「ごめんなさい。いま何時」
  「自分で時計見たらいいだろう。テレビのよこにあるんだから」
  「よく見えないんだよ」
  「4時20分だ。時計はここに置くよ。ここならよく見えるだろ」
  小さな置き時計をベッドの端に置いた。
  「もう二度と呼ばない」

  また5分もすると呼びはじめた。知るものか、と放っておくと、僕の名前ばかりか、妻の名前、
  息子の名前と次々に連呼する。
  「なんだよ」
  僕は形相すさまじい顔を出す。
  すると母は、
  「きょうは、何日?」