頼山陽18歳の旅日記(1)

 
 頼山陽(らいさんよう)は広島藩儒の家に生まれた儒学者であり、漢詩人であり、歴史家であり、思想家でありました。

 山陽について書かれた書物は、学術的な研究書、評伝から梶山季之さんのはちゃめちゃな時代小説まで、おびただしい数にのぼります。なかでも集大成ともいうべき、中村真一郎さんの『頼山陽とその時代』という大著があります。

 このうえ、僕わくわく亭ごときものが、おこがましくも、山陽について何を書くというのか。

 じつは、僕のてもとに『山陽東遊漫録』という本があります。1982年発行ですから、いまから25年前で、定価が2500円ですから、当時としてはかなり高価な本でした。よくも、そんな本を買ったものだと、われながら感心するのですが、いつか、資料をもとにして若い、若い頼山陽のことを書きたいと
思ったのが、神田神保町の書店でおしげもなく2500円を支払った、その動機でした。

 『山陽東遊漫録』は18歳の山陽が叔父さんの頼杏坪(らいきょうへい)につれられて、はじめて江戸までの旅をしたときの日記なのです。書かれたのは、山陽の江戸到着後であろうとみられています。

 この日記については、山陽自身の手書きの実物が世に出ておらず、写本しかなかったために、偽書ではないかという説がありました。宮島誠一郎という人物が幕末のころ、京都で山陽の遺児から実物を見せられて、それを筆写したというものなのです。

 おなじ旅行の日記が、もうひとつあります。それは江戸到着してすぐ、郷里の母親にあてて手紙を書いて、それと一緒に漢文で書いた、簡単な日記というか備忘録のようなものを、送っていました。それは山陽の書いたものにまちがいないと信じられています。

 両者を見比べてみて、内容において、矛盾するものがほぼないということ、宮島誠一郎という人物が信用するに足りるとみなされたこと、などから、この旅行記を本物とする山陽研究家たちの支持を得て、発行にこぎつけたらしいのです。

 さて、『東遊漫録』は漢字かなまじり文であり、風景のスケッチがたくさん挿入されていて、読みやすいし、楽しいものなのです。余人が残した日記であれば、べつにどうというほどの内容ではないので、刊行されはしなかったでしょうが、なにせ頼山陽の、ういういしい18歳の旅の絵日記ですよ。

 これを、ちょっと料理して、小説にするか、小説なのか日記そのものなのか、読む人が迷うものにするか。あれこれと想を練る、この過程がまたたのしいものなのです。

 僕わくわく亭は尾道の出身ですが、山陽の日記には尾道に投宿したことがしるされています。尾道および、周辺の記事、そしてスケッチにはとても興味がひかれます。

 時は、寛政9(1797)年の3月です。

 3月12日に広島をたち、竹原から舟に乗り、忠海におもむく。忠海で上陸し、陸路尾道へ。そして尾道に宿をとります。

 尾道について、18歳の山陽は、つぎのように記しています。

尾道は繁華のところである。土地は海浜にあって、向かいには、呼べば応えるほどの近くに、長い島がある。つらなりわたること3,4里ほどで、その間にある海は、まるで大きな川を見るごとし。
 舟が入ってくるところは幅が狭く、停泊するところは広い。まさに、天が設けたといえるような、大きな湊である。
 この尾道でわが藩の領地はつきる」

 ここに数枚の風景スケッチがはさまれます。

 一枚は「三原城をはるかに海上に望む」という一条につけたスケッチです。

 そのつぎにあるスケッチには、
 「糸崎の東つらより、尾道街道の方へかかりて、山上に梅林あり。余、通りしころ花盛りなりき」
と説明しています。

 そのスケッチを(2)でお目にかけます。