頼山陽18歳の旅日記(2)

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 3月17日、頼山陽たちは、尾道から舟に乗ります。

「千光寺、天寧寺、西国寺などの楼閣が、市の後の山腹に高くそびえているのを見る。

 なかでも千光寺がもっとも高い。10丈ばかりの水精石の、六角形をしたものが、塔の上に突っ立っている。

 昔、唐人が夜光を望み見て、この石の中から玉を取り出したという。故に、尾道を別名、玉の浦という」

 今津で舟を下りて、福山城の天主がそびえるのを望み、芦田川を渡り、神辺に宿す。

「山陽の地に隠れもなき菅太中(菅茶山)という父の友人の家を問い、その別荘である黄葉夕陽村舎というところに、宴を設けて、終夜実話をきいた。

 田の中にある舎であるから、今夜の月はさえていい景色である。門人に命じて、横笛を吹かせる。

 雅趣はいいようもないほどである」

 
 落ち着いた大人の文章ではないですか。

 ところが、山陽は病み上がりというか、まだ病気は完治した状態ではなかったのです。病気というのは、現代でいうところの鬱病、躁鬱症、あるいは心身症でした。

 14歳のころから発病して、15になると2度にわたって竹原に転地療養をこころみるが、さっぱり効果はなかったようです。

 17歳になった、つまり江戸への旅の前年には、山陽の両親でさえ手に負えないほどの、はげしい発作をおこしたもようで、父親の頼春水は、その日記に、

「久太郎(山陽)の持病が暴発した。家族は狼狽し、昼夜看病するが、この間の事件については、はっきりとは記せない」
 と、苦衷をもらしています。

 広島に置いておいても、病気治療のめどがたたず、丁度江戸の藩邸勤務となった杏坪(きょうへい)につけて江戸に送り、昌平校にいれて学問をさせることで、あらたに転地療法の効果を期待したのが、父親春水の心の内だったのです。

 それで、山陽は旅の途中、なにごともなかったのか。発作も、鬱もおきなかったのか。

 日記にかかなかった、事件、暴発はなかったのか。

 両親のけわしい監視の目から自由なった長い江戸への道中で、18歳という若い肉体をもつ頼山陽が、はたして、両親に旅行の報告書でもあった『東遊漫禄』という日記に、故意に書かなかったことはなかったか。

 宿場、宿場には彼を誘惑する女たちが、黄色い声をはりあげていたでしょうし、どこへ行っても
頼春水の息子を見ようと客たちが待ちかまえて、山陽に大酒を飲ませたにきまっています。事件はあったが、日記に書かなかったとしたら。

 15歳で竹原に二度まで送られていた間、恋しく思った女がいて、このたび3年ぶりに再会ということがあってもおかしくないし。

 と、まあ、日記に書かなかったことを、あれこれ想像する。

 それを考えてみるのが、小説を書く楽しみですね。