「尾道文化」

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 尾道市文化協会が毎年発行する雑誌『尾道文化』の37号に、「伊藤博文尾道宿」という

随筆を書きました。

 明治37年7月20日に伊藤博文は広島の宇品港から海路尾道に到着し、市内の旅館に一泊、

翌21日早朝舞子へ発っています。その旅館は何処で、現在はどうなっているのだろう、と

好奇心の赴くまま検証してみたものですが、ついでに明治の元勲である伊藤公の好色癖も紹介

します。

 明治37年というと、その2月に日露戦争の開戦があります。

 伊藤公の広島行きは呉製鉄所など軍事施設の視察が主目的だったと思われますが、

俳優の川上音二郎随行しているのを見ても、行楽を兼ねていたのではと推測します。

 尾道では市内の有力者がこぞって慰労会を催しますが、公は宴会では何も語らず、

退屈した様子で、宴会の終了を待たず宿へ帰り、音二郎と芸者数名を相手に飲み直しています。

酒が回る頃、芸者とともに寝に就くのですが、レンガ坂の火事騒ぎで夢は破られます。

翌朝7時には再び第二呉丸に乗船して、尾道の有力者たちに見送られつつ尾道を後にします。

 このいきさつを当時の地元新聞である「尾道新聞」は、この重大な戦局のさなか、料亭で飲み、

芸者遊びをするだけで、市民は何のために来たのかと了解に苦しむ、と批判しています。

 その伊藤公の旅館は同紙に「天畫楼」と記されています。

それが停車場前の「浜吉第一支店」であること、後に跡地に「尾道ホテル」が建ち、現在その

場所はパーキングになっていることを、文献から文献へと歴史探偵もどきで突き止めていきます。

歴史の本流を細流から見るようなものですが、明治の元勲の尾道宿をたずねるだけでも、

115年の過去の時間を垣間見るようで、楽しんで書きました。

尾道文化』37号
定価 1000円
発行:尾道文化協会
   尾道市久保1-15-1 TEL(0848)20-7514