中橋稲荷を探して(2)

弘化元年(1844)の12月に江戸町奉行所へ、四谷太宗寺門前町で玩具類を商っていた

勝蔵が、日本橋住吉町の祈祷師善兵衛を訴え出た。

善兵衛は召し捕られて、月番の南町奉行がこれを裁いた。

善兵衛の嫌疑は、祈祷で病気を治すと触れ込んでおいて、依頼が来ると、てもとに飼っている

狐をつかわして病人を狐憑きにして狂乱させる、そこへ善兵衛が乗り込み、狐を連れ帰ることで

病気全快に見えることであくどい祈祷料をせしめる、というインチキをしているというもの。

勝蔵の女房が血の道で患っているとき、善兵衛に祈祷を頼んだ。

すると狐憑きになって、べらべら喋る。

勝蔵の家から近い番衆町に住む飯田八三郎という武家の隠居が、その狐を問い詰める

ことによって、狐は自分は「舟橋という号の狐であり、親方の善兵衛の命令でやってきた」と白状する。

飯田と勝蔵は,善兵衛を呼び寄せて、おまえが憑けた狐なのだからお前が祈祷で落として

連れ帰れ、とつるしあげる。

しかし祈祷師は狐など使ったことはない、迷惑だと逃げる。

そこで奉行所へ訴え出たのである。

以上は実際にあった訴訟事件で、時の奉行である跡部能登守が裁いた裁判記録があって、

それをもとにして、わくわく亭は小説を書いたのである。


狐憑きを裁くという、前代未聞の裁判になる。

お白洲で病気の女房に取り付いた「舟橋」と善兵衛が対決する。

奉行所の御威光で狐は落ちる。

しかし、その夜、かわりの狐がやってきて、「中橋」と名乗り、女房を取り殺すと脅迫する。

勝蔵は翌日再び奉行所へ訴えて。。。

裁判の途中、祈祷師善兵衛は、あわれにも拷問によって死んでしまう。

二匹目の狐「中橋」は悪賢くて、なかなか落ちようとしない。

しかし、善兵衛が死んだと知って、自分のために稲荷社をこしらえてくれるなら、

病人から離れてそこへ落ちつくと、交換条件を出す。

そして、ついに中橋稲荷が建てられる。

新宿の三光院稲荷(いまの花園神社)から勧請される。

中橋は落ちて、勝蔵の女房は正気を回復する。


という由来がある中橋稲荷を、わくわく亭は、建てられた場所の太宗寺門前町へ探索に

来たというワケなのだ。

つぎの地図は江戸切絵図を現在の地図に重ねたもの。左下に太宗寺、右上に三光院が見える。

それと、右下に黄色でマークしたのは善兵衛を問い詰めた武家の飯田八三郎の家で、

息子の飯田八太郎の名で出ているのがわかる。

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わくわく亭は、飯田八三郎親子が住んでいた番衆町へ行って見た。

168年も経っているのに、その道や町並みはなんとなく残っているようにみえた。

それは昔の裏番衆町の通りで、いま東京医大通りと呼ぶ通りの角である。

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