恐怖の「切り裂きジャケット」

19世紀末ロンドンにおける切り裂きジャックではありません。

21世紀東京練馬大泉学園における難事件です。



曇り空で、寒くはなかった。

夕方、散歩に出かけるとき、どうしようかと迷ったのはダウンジャケットだった。

今は寒くないが、帰りは8時過ぎになるだろうから、気温は下がるので、

ダウンでもいいだろうと決めた。

それが判断ミスだった。

氷川神社の坂道を下る頃、はやくも暑くなってきたから、ジャケットの前を開こうと、

ファスナーを下げようとした。

ところがファスナーが動かない。

たまに経験することで、衣服の裏地を噛んだりして起きるトラブルだ。

上下運動させていると、たいてい噛んだ裏地から外れて動くものだ。

どうしたことか、にっちもさっちもいかない。

とうとう汗だくになる。

帽子を脱ぐと、頭から滝の汗が、顔や首筋に流れ落ちるありさまで、まるで

発汗するために運動ジャケットを着ているようなもの。

どうやってもファスナーは動かない。

駅前の100円ショップで潤滑油を買って差すことにする。

このジャケットを着たままでは、暖房をしている書店にもコーヒーショップにもはいれない。



駅南口ロータリーの花壇の縁に腰かけて、買ってきた油を差そうとする。

なんたることか。プラスチックの尖った先端に穴があいてないから、差すことができない。

ナイフを買って先端をカットするか?

いや、もう帰宅しよう。

油を差してもファスナーが開くともかぎらない。

その場合には、ハサミでジャケットを切り裂いてしまおう。

そんな作業は自宅でないとできっこない。


油差しをリュックにしまうと、帰路につく。

腹も背中も汗にぬれている。

気持ち悪いことこの上ない。ジャケットをナイフで切り裂いてしまいたい。

家に帰ったなら、どんな乱暴なことをしてでもジャケットを脱いで、風呂にはいって

汗を流すのだ。


わが家に入ると、風呂には息子がはいっていた。

「すぐ出るか?いやね、ジャッケトのファスナーがはずれないもので……」

自室でリュックを下ろして、油差しを取り出したりしていると、腰にタオルを巻いた

息子がやってきて、

「ファスナーが生地を噛んだときには、右側の生地を上方へ引き上げながら、

ファスナーを上下に、こんなふうに動かしてやれば、外れるんだよ」

ものの10秒ほどでファスナーは動いて、わくわく亭の身体は、悪魔のダウンジャケットから

解放されたのである。

まことに、あっけない幕切れ。

ジャケットをハサミで切り裂く悲劇は避けられたのでありました。

嗚呼。