光明寺展墓

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光明寺尾道駅前から歩いて数分のところにある。

今回の尾道旅行の目的のひとつが、光明寺で勝島惟恭とその一族の墓をしらべてみることだった。

惟恭は尾道豪商のひとつ鰯屋の6代目で、宝暦10年庚辰に生まれ、文化5年戊辰に49歳で

没している。

わくわく亭の近著である『十八歳の旅日記』で、18歳の頼山陽がはじめての江戸への旅の途中、

尾道に泊まった夜の山陽の日記を紹介していますが、来客たちと《詩酒三更に到る》と楽しんだ

客の一人が勝島敬助すなわち勝島惟恭だったのです。

勝島家は代々、京都の儒者伊藤仁斎によってはじめられた古義学を学び、惟恭は伊藤東所を師として

いる。文化3年には『芸備古蹟誌』を著すなど、商業のみならず文化活動も熱心に行った人物でした。

わくわく亭はかつて「尾道狂歌師たち」という150枚ほどの小説で、文化年間の尾道

豪商たちや菅茶山、頼山陽の影なども見せながら、鰯屋と本陣笠岡屋に起きた事件を中心にした

物語を書いたことがあった。

それをもっと史実に接近した小説に書き直したいと考えていて、鰯屋すなわち勝島家の菩提寺

展墓することにしたのです。

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しらべようとする墓は今から200年以上も経った古い墓石だから、風雨に削られて、誰の墓なのか

読み取れないものが多くて、十分な成果があったとはいえない。

それでも、惟恭の墓は確認できた。

3日の滞在中2回光明寺を訪れて、延べ2時間あまり勝島一族の墓所で過ごしましたが、

夏のような陽気で、汗びっしょりになりました。

偶然にも高校からの古い友人の菩提寺が、この光明寺だとわかり、彼を通じて、寺の住職に

勝島惟恭の子孫について尋ねてもらうことにした。

こうした資料集めが歴史小説を書く楽しみのひとつでもあるのです。