「死は、ないのです」
池田さんの著作はとても多い。46歳で腎臓のガンで亡くなっているのだが、その長くは
ない生涯に驚くほどたくさんの本を書いている。
この本は2008年11月に発行されているが、その前年2007年2月に著者は没している。
平易にわかりやすく、エッセイ風な文章で哲学について書いた。
慶應大学文学部哲学科に在学中から、そのすぐれた容姿が評判で、雑誌の読者モデルをしていたそうだ。
卒業後は文筆家をめざし、やがて日常的な言葉で語る「哲学エッセイ」というジャンルをこしらえて
人気を博した。
写真は晩年のものかもしれない。
この『人生は愉快だ』は3章から構成されていて、中でも第1章がおもしろい。
30人の言葉を紹介して、それについて解釈と思考をするもので、
この30人の哲人たちが「死」をどのように語ったかを考える。
そのバラエティもまた楽しめる。
池田さん自身が「死」をどのように捉えていたか、それが「エピローグ」に明快に書かれている。
書いた本人がガンで亡くなっているから、その文章はことのほか印象深い。
自分とは何かと徹底的に考えたことのない人が、「死に方」という他愛のないことを言うの だと思います。徹底的に考えたら、死に方などというものは問題なくなる。「死」だけが 問題になるのです。
「死」と「死に方」を一緒にしてはならない。「死に方」は選べても「死」は選べない。
「死」は向こうからやってくる。
その「死」だが、他人の死は見ることができても、自分の死を知ることはできない。
自分の「死」は「ない」のである。
死は人生のどこにもない。そう認識すれば、現在しかない。すべてが現在だということに 気がつくはずです。(略)過去もこの現在にあることに気がつく。現在という瞬間に時間が 層をなしている。(略) 「自分」とはそんな個人に限定されるものではなく、人類や精神、宇宙とは何かという思索の なかで存在する不思議なものなのです。 死が恐かったり、今の人生にしがみついている自分がなさけなかったりするなら、 そう考えたらいい。人間はまだ、死をおしまいと考えていますが、ひょっとしたら、 死は始まりかもしれないのです。
自分の「死」を知ることはできないから、「死」は「ない」。
死ぬと「無」になると考える人が多いが、死ぬとき「無」であると知ることはできない。
「死」がないのだから、「現在」をどこまでも生きる、という認識論だ。
46歳で死の床についていたとき、池田さんは「現在」について思索していたはずだ。
この本のことを思い出して,ブログで紹介することにしたのは、
関する罰則規定も作らない」という論理を、ブログに書いたとき、
池田さんの「死」は「ない」という論理を思い出したからです。
もちろん、二つの論理にはいかなる類似点もありません。