パッチン(めんこ)をする少年たち

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 写真は昭和28年のものです。
 
 尾道市内の道ばたでパッチン遊びにふけっている少年たち。うしろに写った店は、駄菓子屋かもしれない。パッチンはそんな店でも売っていた。

 写真左端の少年は、かれらの中で一番背が高く、中学生らしい。いつも、着た切り雀で、おなじ学生服を着ていた。帽子は、寝るとき以外は、たいてい被ったままだった。

 僕の本『尾道船場かいわい』に収めた短編「夏の姉」に描かれた中学生の伸夫は、年代的にも、この写真の少年にぴったりである。



 伸夫の両親は小さなくだもの屋の店をひらいている。(写真の店をそれといっても、おかしくはない)
 
 19歳の姉と小学生の妹との、まずしいけれど、平和な5人暮らし。

 姉は三原市の布団屋に嫁入りしたものの、すぐ離婚されて出戻ってくる。
 
 離婚の原因は姉のワキガだといわれるが、主人公の中学生は姉のその体臭が好きだった。
 
 やがて、おとなしく影の薄かった父親がガンで死に、少年は中卒で造船所つとめに出る。
 
 果物屋の店番には再婚した姉が通ってきて、ちいさな平和なくらしはつづく。

 伸夫は勉強はできなかったが、こどもの遊びだけは、何をやっても才能があった。パッチンも無敵だった。


 そのようすを、短編「夏の姉」から引用します。


 〈……パッチン遊びに加わるものは、一回に五枚、十枚と賭けてプレーするが、(略)連戦連勝する伸夫はリンゴ箱に千枚以上も勝ち取ったパッチンをためていた。
 
 おもちゃ屋で買わず、伸夫から安く買う子もいた。買ったらすぐ伸夫と一戦して、また皆とりあげられた。
 
 伸夫の楽しみは増えて行くパッチンを、絵柄の種類別に分類整理して、戦果を数えることだった。
兵隊もの、ターザンもの、嵐寛の鞍馬天狗もの、千恵蔵のチャンバラもの、(略)などに分けて輪ゴムで束ね、一束を五十枚にして数えやすくした。
 
 まるで映画でみる悪徳な金貸しが、あくどく溜めこんだ小判を数えるように、くりかえし数えて飽きないほど楽しかった……〉

 そのような少年たちが、どこの町にも、きっといましたね。