なんくるないさ

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2011年元旦です。

年頭の言葉を、沖縄で聞き覚えた「なんくるないさ」にしましょう。

「なんとかなるさ」です。

明日のことをくよくよ悩まないでも、自分が正しいと思うことをやっておけば、なんとかなるさ、

という意味としてつかわれています。

沖縄言葉の定型句「まくとぅそーけー(正しい事をすれば) なんくるないさ」の

構成部分だそうです。


日本経済のバブル崩壊にはじまったデフレ不況は、ことしで20年つづいたとテレビの

解説者がいいます。失業、高齢化、少子化無縁社会孤独死、などなどが叫ばれて、

日本人はそうでなくても「空気」に影響受けやすい国民ですから、「うつ」傾向になります。


経済アナリストが、日本人の投資意欲が失われた姿を「内向き下向き後ろ向き」と

うまいこと表現していましたが、どうやら日本全体の姿を写す表現としてもつかえそうです。


朝日新聞が新企画として「孤族の国」という取材記事を連載しています。「家族」から「孤族」、

つまり中心世帯人数が一人になってきた日本で、家族からも職場からも離れて孤立してしまって

「助けて」とも言えなくて「孤独死」予備軍となりつつある人たちを追っている特集です。

NHKでは「無縁社会」というスペシャル番組で、類似の問題をとりあげて注目されました。


政府の福祉、介護、年金政策の不備や不満や遅れが批判されています。

中国、韓国、アジアの経済発展と比較して、日本だけが取り残されるという不安が経済界から

叫ばれて、ますます雇用や所得分配に消極的になっています。若者の就職や雇用の機会が

どんどん奪われて社会不安がつのります。


他方で、曾野綾子さんの新書本「老いの才覚」がベストセラーになっています。

立ち読みしたところでは、ざっとこんな内容のようです。

高齢化社会を迎えつつある日本社会で、老いる覚悟のない高齢者が多すぎるのは、なげかわしい。

老年の仕事は、いわば孤独に耐えることである。

高齢になっても、他に頼ろうとしないで、最後まで自立すべきであり、他人に依存しないで

生きるべきだ。自分の才覚で生きるべきだ。

社会がくれるものなら、何でももらっておこうというのは、乞食根性になっている証拠である。

老いて能力が衰えたなら、他人に頼らないで、自分の生活を縮めることをするべきで、

金がなくなってしまえば、のたれ死にをするまでだ、という覚悟をもって最後まで

自立して生きるべきだ」


多くの高齢者が、他人のお世話になるくらいなら、死んだほうがまし、という。

他人に頼ることは、「恥」だという日本人に共通する人生観の一面です。

一人でアパートに暮らす老人が、病気になっても、施設に入ることを拒否するのは、

「そんなことまでして、生きていたくはない」という日本人の「恥」の文化のDNAです。


たしかに、日本人には最後まで自立して生き、他人の手を借りてまで生きるような

生き恥をさらさない、という心性があります。

しかし、そうした倫理観は「助けて欲しい」と訴えることがしにくい社会の「空気」

を知らず知らず醸成しています。

どうにもならないほど、自分を「孤立」に追い込んで、「他人に依存」しなければ滅びる

瀬戸際にいながら、「助けて」と言い出せない。

そうした人をたくさん社会の底辺に、日陰の隅々に、放置してはいないでしょうか。


曾野綾子さんの「老いの才覚」とは真逆の人生観について書いた本があります。

いま本の題名を思い出せないのですが、メキシコだったと思いますが、中南米に長く

生活していた経験から“ラテン的生き方のすすめ”というような本を書いた著者が

テレビ番組で話しているのを興味深く聞きました。

その国では、日本とは比べものにならないほど生活は貧困であり、犯罪も多いし、教育水準も

低いが、人々の幸福感は日本人よりはるかに高く、自殺者はきわめて少ない。

それはラテン系民族の楽天的な人生観の故だといいます。


定職がないとしよう。女房も子もあって、家賃は払えなくなっているが、なんとか家主を

ごまかしてボロ屋で雨露をしのいでいる。

町をうろつきながら、頼まれたのでもないのに、どこかの家の畑で草むしりをしたり、

マキをわったりする。食事時には、その家の中に入って、家族とともに食事をする。

家族は草むしりをしてくれた彼が、食事をしていくのは当然と、ごく自然にワインと

パンを提供する。天気の話や政治の話をして会話を楽しんでから、彼は食後もすこし

働いて、夕食用のパンを土産にもらって帰る。

彼はつぎの日には、また別の家でなにか仕事をして、食事に招かれる。

町には、いつも誰かの家で祝い事があるし、葬式などもある。なにかの集会もあるし、

祭礼もある。彼は妻と子をつれて、そうした場所に行っては、遠慮なしに食事をする。

教会ではいつでも食事ができる。

だから失業しても、だれも心配しない。なんとかなるさ、とお天気の心配だけする。

失業者にだって恋人がいるし、歌をうたい、ギターを弾いて踊るし、楽しい夢を語る。

応援するサッカーチームが勝ったと言っては、どこかで酒とパンのふるまいにあずかる。

遠い将来のことまで人生設計がどうの、貯蓄と運用益がどうの、と悩んだりしない。


曾野綾子さんのベストセラーとは正反対の世界観がひろがっているのです。

困っている者が、困っていない者から、「ヘルプ」してもらうのは当たり前であり、いつ

逆の立場になるかわからないのが浮き世じゃないか、という共通した認識があるのです。

他人の世話になることを「恥」とは感じない、ごく自然な「持ちつ持たれつ」の人間関係と

受け取って生きる人々。


だから平均的な幸福感は高い。人生は楽しむのがあたりまえで、貧富に関係ない。

ブラジルやアルゼンチンなどで、貧しい女の子が一年間働いて貯めたお金を、10日ほどの

カーニバルで使い果たす。彼女は幸福感につつまれて、つぎの一年を働いて、つぎの

カーニバルのために貯蓄する。

だから、貧しいからと、自殺する者は少ない。

そんな話を面白く聞きながら、日本人も江戸時代の庶民はそうだった、と考えました。


日本のなかで、ラテン的な楽観主義、幸福感をもつ場所と言えば、やはり沖縄でしょう。

沖縄へ行ってみれば、その開放感がラテン的だと肌で感じられます。




沖縄や島々の集落では、みんなが毎日行き来をして顔を見せ合ってくらしているから、「孤立」

することがない。

誰かと誰かが仲違いしても、仲介者にことかかない。酒をふるまって、島唄を歌いながら、

庭で踊るうちに、どんなわだかまりもとけるという人々の知恵があるようです。

台風被害も毎年であり、苦しいことも分け合って凌ぐから、楽しいことも分け合って楽しむ。

そうして、

なんくるないさ」と言うのです。