短編「かれらの風貌」(11の1)

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                   かれらの風貌

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「オッキーがこのまま帰ってこなかったら、あなたのせいですからね」

 妻の声には悲痛なひびきがあった。

 水曜日の夜、仕事から戻った私が門扉を開いたとき、私の足もとをすり抜けるようにして外へ出て

いった老犬は翌朝になっても戻らなかった。

 その夜は朝まで玄関灯をつけ、門扉は開いたままにした。

 妻はかすかな物音にも寝床を起き出して、玄関の外をのぞきに出た。

 翌朝私が起きた時刻には、すでに妻は日頃の犬の散歩コースをすべて捜し歩いてきたところだった。

「オッキーはすこし呆けてたから、もどる家が判らなくなったんだわ。かわいそうに。

あなたが気をつけていたら…あなたの不注意のせいですからね」

 鎖をはずしていたのが悪いんじゃないか、という私の抗弁は、

彼女の怒りの火に油を注ぐばかりである。

「丁度わたしが散歩につれて行って帰ったばかりで、飲み水をとりかえてやるところだったと

言ったでしょ。わたしのせいにしないで」

 私へ怒りをぶつけでもしなければ、犬を不憫がる彼女の気持ちのもって行き場がないのだ。

 不機嫌に口をとざし、さてどうしたものか思案もつかない私を尻目にして、

妻は区役所の窓口サービス開始時間である八時三十分丁度に保健所に電話をいれた。

 迷子犬が保護された場合、どこに収容されるのか、問い合わせる電話番号は、と彼女は訊ねた。

世田谷にある動物保護センターの所在をおしえられる。

 つぎに保護センターへ電話する。行方不明になった場所と日時、犬の種類、特徴をくわしく

説明している。

「中型の雑種犬です。予防注射をうけるとき、少なくても七種類はかかった雑種だといわれました…。

はい、予防注射は毎年うけています。年齢は十六歳くらいになります…。はい、

ずっと家におりますので、それらしい犬が見つかりしだいご連絡ください」

 ついで、妻は区に隣接している二つの市についても、迷子犬を収容する保健所なり保護センターが

あるかとたずねている。

収容施設をもつ朝霞保健所をおしえられる。

 その保健所に連絡する。そこにもオッキーの特徴と失踪日時、場所を届け出る。

 そうした妻のてきぱきと無駄のない、沈着な対処の仕方に、私は感心した。

「こうしておけば、ひとまず安心でしょ。役所に捕獲されて収容されたらね、

七日待って引き取り手がなかったら、致死処分されちゃうの」

「チシショブンって?」

「薬を注射して殺すってこと。そんなことになったら、わたしは一生後悔する。

オッキーは、きっとみつかる。そんな勘がする。わたしの勘はあたるから。そうでなきゃ、

あんまり可哀想じゃないの」 

 いまの彼女にとってオッキー以上の重要事はないのである。

 仕事に出かけようと玄関で靴をはいている私に、気ぜわしく、

「はい、いってらっしゃい」

 と台所から声だけかけておいて、犬の散歩仲間にオッキー発見への協力をたのむ電話で

いそがしいのだ。


                 ―(2)へつづく―