富良野塾の閉幕

劇作家、演出家である倉本聰さんが主宰していた「富良野塾」が閉塾となった。

1984年から私財を投じて、俳優や脚本家を養成することを目的に開塾。

受講料は無料。熟生は農作業で生活費を稼ぎながら、2年間共同生活をして、

演技や脚本の勉強をした。

26年間に300人を超える若者が巣立った、ということである。

4月4日に、熟生とOBたちが集って、閉塾式が開かれた。

倉本さんは「たくさんの原石に出会えた」と感慨を述べた、と新聞が報じている。

今後は富良野に残っているOBたちと「富良野GROUP」という演劇集団と公演をしてゆく

そうである。



このニュースを読んで思いだしたのは、先月TBSラジオで聞いた、倉本さんの

富良野塾閉塾の心境だった。

75歳という年齢的な理由もあるだろうが、塾生を育成するという情熱が冷めたことが

理由のひとつだな、と思いつつラジオを聞いたものだ。


近年の塾生たちの質の問題があるようだった。

富良野を舞台にした倉本さんの家族ドラマ『北の国から』が話題を呼んだのが1981年

からだった。その3年後に富良野塾が開かれると、全国各地から脚本家、俳優を志す若者達が

富良野に集まって、塾は「原石」を発見し、磨く道場となっていった。


しかし、長い不況期と就職氷河期の影響から、富良野塾にやってくる若者たちの動機が

変質したという。

演劇よりも、入塾すれば就職しなくても、食べられることが魅力だという入塾希望の動機

が多くなった。

脚本を読んだこともない若者たち、読書もしたことがない若者達がやってくる。

2年間富良野の自然の中で、食べられて、楽しく過ごせればいいという気持ちでやってくる。

簡単な試験はするらしい。

たとえば、「田中角栄という政治家の名前を聞いて、思いつく四字成語を書け」

と出題をした。

田中角栄だから、「金権政治」とか「列島改造」といった解答が期待されたのだろう。

ラジオで倉本さんがいくつか紹介した迷解答のひとつは、これ。

新潟県人」


爆笑したよ。

こうした若者たちを脚本家や劇作家に育成しようとすると、

まずは日本語、国語の基礎教育から始めなくてはならない。

このブログ書庫で『この空恐ろしいまでの現実』という記事を書いたが、

まさにそれである。

富良野塾は国語の塾ではない。脚本、演劇の専門家育成の道場なのだから。

そんな若者ばかりが集まるようでは、倉本さんの情熱も冷めるというものだ。

きれいごとばかりでいかないのが世の中だ。


だが、富良野塾から巣立った300人のうちから、いつか

すぐれた俳優や脚本家が世に出るかもしれない。

教育とは、そんなふうに時間を要するものだろう。