ブンガワン・ソロ



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ブンガワン・ソロという曲名を聞いても知らない人の方が多いだろう。

戦後ラジオでしきりに流れ、大ヒットした楽曲だった。

NHKのラジオ番組「うたのおばさん」だった松田トシ{今年95歳でまだお元気)さんの

ヒット曲。彼女が日本語の歌詞をつけて歌ってヒットすると、藤山一郎さんや渡辺はま子さんも

レコードを出した。

NHK紅白歌合戦でも歌われた。

インドネシアの民謡曲で作曲者は不明とされていたらしい。

ところが、ちゃんとした作詞作曲者がインドネシアにいたのである。

グサン・マルトハルトノさんがその人で、歌手でもあった。

いまもジャワ島のソロの街に93歳のグサンさんは暮らしている。

「ブンガワン・ソロ」の秘話を今朝の朝日新聞「BE」の「うたの旅人」が伝えていた。

わくわく亭は、はじめてこの曲の作曲者について知ったのである。

トップの写真はブンガワン・ソロ(ソロ川)の夕景色である。

下の写真はソロの街に掲げられているグサンさんの肖像である。

ソロで、グサンさんは「ブンガワン・ソロ」という世界的ヒット曲をつくった英雄として

讃えられているのである。

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記者がグサンさんを尋ねて行ったのであるが、路地の中の10坪ほどの小さな平屋で

姪夫婦と暮らしているそうで、数羽のニワトリを飼う暮らしは「とても裕福には

見えなかった」としている。はっきり書いていないが、とても貧しい暮らしを

している、ということなのだ。

日本には招かれて3回来日しているとのことだ。1980年には札幌雪まつりに招かれて、

雪の降る会場で「ブンガワン・ソロ」を歌ったそうだ。雪を見て、子供のようにはしゃいだそうだ。


日本では、小林旭都はるみ美空ひばりさんほかも歌っているのに、作曲者のグサンさんには

収入にならなかった。

なぜか。

インドネシアは国際的な著作権条約に加入していなかったので、印税がもらえなかった。

条約に加入した1997年になって、ようやくグサンのもとに印税が入るようになった。


グサンさんは音楽好きな少年で、17歳のときインドネシアのポピュラー音楽「クロンチョン」

に出会う。それは16世紀にポルトガルからの移民たちがはじめた音楽だった。

グサンさんが作曲をはじめたのは21歳で、1940年23歳のときに「ブンガワン・ソロ」を

作曲した。ソロ川のほとりを散歩していてひらめいた曲だった。

小学校しか出ていなくて、楽譜も読めなかった彼は、竹笛で音をさがし、数字で音階を書いた

のだという。

そのころはインドネシアはオランダ領だった。

そこへ大東亜戦争をはじめた日本軍が進駐してきたのである。

日本軍は敵国の欧米音楽を禁止して、インドネシア民族曲であるクロンチョンを推奨した。

「ブンガワン・ソロ」は日本軍がバックアップして、ラジオでさかんに流された。

日本兵士もその「郷土の川の流れ」を歌う郷愁に心を癒されて、愛唱したのである。

そうして、この曲はインドネシアの国民歌謡になった。


戦後、兵隊たちは日本に帰国してからも、ブンガワン・ソロを歌った。

それを松田トシさんが日本語の歌詞をつけて歌って、大ヒットとなった。

歌手の藤山一郎さんは、慰問のためジャワ島に行ったところで終戦を迎えて、捕虜に

なったことがあって、そのときに「現地の民謡」としてブンガワン・ソロをおぼえたという。

1957年のNHK紅白で、藤山さんはそのブンガワン・ソロを歌った。

しかし、藤山さんも「現地の民謡」だと思い込んで、作曲者のグサンさんについては

知らなかったようである。


この記事に添付するために、いろいろの歌手が歌うブンガワン・ソロをYOUTUBE

聞き比べてみたが、わくわく亭が一番好きなのが、渡辺はま子さんの歌でした。

「歌のゆくえ」におさめますので、はじめての方も一緒に聞いて下さい。

日本のアジアでの戦争の記憶とともに聞いていると、胸が熱くなってくるではありませんか。


黒沢明監督の映画「野良犬」で、戦後の闇市を帰還兵である三船敏郎さんが

うろつくシーンに、ブンガワン・ソロが流されています。

とても効果的ですね。