森繁久彌さんと成島柳北のこと
森繁久彌さんの「三等重役」時代からのファンとしましては、
彼が生きていると思うだけで、世界がほんわかと暖かく感じられていました。
亡くなられて、この世がすこし寒くなったように思えます。
50%ずつを出資していました。
あったので、資料としてメモしておきました。
今日は朝から新聞もテレビも森繁さんの履歴や業績をくわしく報じています。
しかし満映時代のことについては情報が乏しいようです。
それをすこし補足するつもりで、森繁さんの満州時代のことを記事にしてみようと思ったり
しながら、ぼやぼやしていると、oniyomeさんからコメントがあって、
それに返事をしたところです。
それを、ここに転記しておきましょう。
就任すると、国内で居場所を失っていた左翼系の俳優たちが、満映に集結します。
映画人なら、左翼も右翼も思想は問わない、満州は映画制作の新天地
だという考えでしたから、いろいろな才能があつまったようです。
満映の熱い血が受け継がれたのです。
新京の劇団に所属していた芦田伸介とも知り合うことになるのです。
ところで森繁さんは名門の家系に生まれています。
それについてはWIKIPEDIA の記事が詳しいので、それにゆずりますが、
森繁久彌さんの「久彌」という名前は彼の父親菅沼達吉と親交があった岩崎久彌の名前から
そうして、なんと驚いたことに成島柳北とは血縁で大叔父にあたるというではないですか。
父・菅沼達吉は、幕府大目付の森泰次郎の次男でした。森家から菅沼家へ
養子に行ったのですが、その森泰次郎という人は松本家の出身でした。
松本家では泰次郎と柳北は兄弟でした。泰次郎が兄。それぞれが、森家、成島家の養子と
なったのです。
すこしややこしいですが、森繁久彌の祖父である泰次郎の弟が、幕末から明治にかけての
わくわく亭は成島柳北のファンであります。
彼の『柳橋新誌』は愛読書です。
いつかブログに『柳橋新誌』の中の特に面白い文章を現代語訳して載せたいと思っているほど
なのです。
その反骨の漢詩人・風流人が森繁さんの血縁とは。
それを知って、森繁さんをさらに親しく感じたものでした。
ここで、成島柳北の写真をUPしておきましょう。
こうして柳北の写真をながめると、どこかしら森繁さんと面影が似ているような気がします。
血筋でしょうか。