森繁久彌さんと成島柳北のこと

森繁久彌さんの「三等重役」時代からのファンとしましては、

彼が生きていると思うだけで、世界がほんわかと暖かく感じられていました。

亡くなられて、この世がすこし寒くなったように思えます。




佐野眞一さんのノンフィクション『甘粕正彦 乱心の曠野』を読んだときに、甘粕が2代目理事長となっ

て改革の実をあげた満映満洲映画協会)について、ほんのすこし調べたことがあります。

満映は1937年に設立された満州国の国策映画会社であり、満州国と満鉄とが資本金500万円の

50%ずつを出資していました。

その満映に関係した映画人の中に、昨10日96歳の天寿を全うした俳優の森繁久彌さんの名前が

あったので、資料としてメモしておきました。

今日は朝から新聞もテレビも森繁さんの履歴や業績をくわしく報じています。

しかし満映時代のことについては情報が乏しいようです。

それをすこし補足するつもりで、森繁さんの満州時代のことを記事にしてみようと思ったり

しながら、ぼやぼやしていると、oniyomeさんからコメントがあって、

それに返事をしたところです。

それを、ここに転記しておきましょう。


満映の映画人としては大スターの李香蘭山口淑子)は別格として、芦田伸介

木暮実千代さんたちが仕事をしていますし、制作部長にマキノ省三の次男であるマキノ光男が

就任すると、国内で居場所を失っていた左翼系の俳優たちが、満映に集結します。

大杉栄殺しで悪名高かった満映理事長の甘粕でしたが、才能のある

映画人なら、左翼も右翼も思想は問わない、満州は映画制作の新天地

だという考えでしたから、いろいろな才能があつまったようです。

戦後マキノ光男が新興の「東映」に入社すると、監督の内田吐夢芦田伸介などの満映時代の

仲間が東映に集まってきて制作するのが、『血槍富士』であり、「やくざ映画路線」で、

満映の熱い血が受け継がれたのです。

森繁さんは満州に渡ると、満州電信電話の放送局に勤務しながら、

満映映画のナレーションなどの仕事をして、当然のことに甘粕正彦とも交流がありました。

新京の劇団に所属していた芦田伸介とも知り合うことになるのです。


ところで森繁さんは名門の家系に生まれています。

それについてはWIKIPEDIA の記事が詳しいので、それにゆずりますが、

森繁久彌さんの「久彌」という名前は彼の父親菅沼達吉と親交があった岩崎久彌の名前から

もらったものです。岩崎久彌は、あの三菱財閥創始者となった岩崎弥太郎の長男です。

そうして、なんと驚いたことに成島柳北とは血縁で大叔父にあたるというではないですか。

父・菅沼達吉は、幕府大目付の森泰次郎の次男でした。森家から菅沼家へ

養子に行ったのですが、その森泰次郎という人は松本家の出身でした。

松本家では泰次郎と柳北は兄弟でした。泰次郎が兄。それぞれが、森家、成島家の養子と

なったのです。

すこしややこしいですが、森繁久彌の祖父である泰次郎の弟が、幕末から明治にかけての

反骨の文人、新聞人となった成島柳北だったということです。

わくわく亭は成島柳北のファンであります。

彼の『柳橋新誌』は愛読書です。

いつかブログに『柳橋新誌』の中の特に面白い文章を現代語訳して載せたいと思っているほど

なのです。

その反骨の漢詩人・風流人が森繁さんの血縁とは。

それを知って、森繁さんをさらに親しく感じたものでした。

ここで、成島柳北の写真をUPしておきましょう。

イメージ 1


イメージ 2


こうして柳北の写真をながめると、どこかしら森繁さんと面影が似ているような気がします。

血筋でしょうか。