歯黒べったり

イメージ 1


東国では「のっぺら坊」ともいう。

《ある人、古き社の前を通りしに、

 うつらかなる女の伏し拝み居たれば、

 戯れ云いて過ぎんとせしに、

 かの女の振り向きたる顔を見れば、

 目鼻な口ばかり大きくて、けらけらと笑ひしかば、

 二目と見るべきやうもなし。》

のっぺら坊は、もともと中国に伝わる妖怪であり、中国の古典には頻繁に登場する

そうである。中国の怪談『捜神記』には「夜道の怪」という話があるが、

日本に伝わると、各地で同類の怪談になった。

小泉八雲『怪談』のなかの「むじな」もこれらの伝承をもとにしている。

「むじな」は、


 紀尾井坂でのこと。夜道にうずくまる女を助けてみれば、ノッペラ坊で仰天し、

 飛び込んだ夜なきそば屋にことの次第を語るが、

 「その女の顔はこんな顔じゃなかったかね」と見せられて、

 再び仰天をする、という話。


ところで、お歯黒といって、江戸時代に、女性は結婚すると既婚の印として

鉄を酸化させた液を使って歯を黒く染める習慣があった。

この妖怪はお歯黒をべったりとつけている。

髪に角隠しをかぶっているから、お歯黒をして結婚衣装を着ている妖怪である。

なにやら深い訳があるとみえる。

解説によると、その髪型は角髪または総角(あげまき)という型だそうだ。

それから絵解きをすると、紫式部の『源氏物語』54帖の巻の一つが「総角」で、

大鎧にある総角とは板と板の間に挟まって動けないの意から、「板挟み」という言葉は

これからきているというが、結婚できない女の悲劇の象徴として、

紫式部は「総角」を巻名にした。

この「総角」は薫大将と匂宮の恋愛物語であるが、かれらの間で「板挟み」となって

苦しむ女が浮き船の君である。

浮き船は思いあまって宇治川に身を投げる。

しかし死にきれず、自殺を図った浮舟は宇治川沿いの大木の根元に昏睡状態で倒れていた。

たまたま通りかかった横川の僧都一行に発見されて救われることになるのだが、

そのシーンで、浮き船を物の怪ではないかと恐れつつ、僧侶が声をかける。

「手習」(53帖)の場面を与謝野晶子訳で引用する。

「幽鬼か、神か、狐か、木精か、高僧のおいでになる前で正体を隠すことはできないはずだ、

名を言ってごらん、名を」

と言って着物の端を手で引くと、その者は顔を襟に引き入れてますます泣く。

「聞き分けのない幽鬼だ。顔を隠そうたって隠せるか」

こう言いながら顔を見ようとするのであったが、

心では昔話にあるような目も鼻もない女鬼かもしれぬと恐ろしいのを、

勇敢さを人に知らせたい欲望から、着物を引いて脱がせようとすると、

その者はうつ伏しになって、声もたつほど泣く。

何にもせよこんな不思議な現われは世にないことであるから、

どうなるかを最後まで見ようと皆の思っているうちに雨になり、

次第に強い降りになってきそうであった。

ここで一命を取り留めた浮き船が、物の怪のノッペラ坊と見違えられている。

そこで『絵本百物語』の作者は、歯黒べったりの姿によって

源氏物語宇治十帖の浮き船の君を想定しているというのである。