お富さんの家の跡

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地下鉄日比谷線都営地下鉄浅草線が交差している人形町駅を地上に上がったところ、

人形町3丁目の角に立っているのが、この「玄冶店」(げんやだな)の史跡の碑である。



「玄冶店」はここにあったのか。

この町名を聞いて、歌謡曲ファンならば、思い出すのは春日八郎さんが歌って

大ヒットとなった『お富さん』ではないか。

歌舞伎ファンならば、いうまでもなく狂言『与話情浮名横櫛』(よはなさけ うきなのよこぐし)

の「源氏店」(げんじだな)の名場面だろう。


謡曲『お富さん』は山崎正作詞で、昭和29年に発表された。

歌詞は4番まであるが、1~2番を引用しよう。


  粋な黒塀 見越しの松に

  仇な姿の 洗い髪

  死んだ筈だよ お富さん

  生きていたとは お釈迦さまでも

  知らぬ仏の お富さん

  エーサオー 玄治店(げんやだな)



  過ぎた昔を 恨むじゃないが

  風も沁みるよ 傷の跡

  久しぶりだな お富さん

  今じゃ呼び名も 切られの与三(よさ)よ

  これで一分じゃ お富さん

  エーサオー すまされめえ



玄冶店の名前は一番の歌詞に出てくる。

お富さんが妾として囲われていた住処が玄冶店だったのである。

もちろん、歌舞伎の「お富」と「切られ与三」の情話を歌詞にしたものだから、

当時の歌謡曲ファンは、(たとえ歌舞伎は見たことがないにしても)元の

話が歌舞伎狂言であることと、いくども映画にもなった物語であるから、

その荒筋くらいは、みんな知っていたのである。

ただし、歌舞伎では「源氏店」(げんじだな)であって、「玄冶店」(げんやだな)ではない。


では「玄冶店」とは何なのか?

歌舞伎の『与話情浮横櫛』では、実在の江戸の地名を使えないので、「玄冶店」をもじって、

「源氏店」にしたわけであり、場所も鎌倉雪ノ下の源氏店という架空の地名にしてあるが、

モデルとなった場所が「玄冶店」であることは、江戸市民には周知のことであった。


岡本玄冶(1587~1645)という京都生まれの医師がいた。

上洛した三代将軍の徳川家光が、京都で彼を知り、江戸に戻るに際して彼を侍医として招いた。

玄冶は幕府の奥医として用いられたが、大変に功績のあった医者で、1,500坪の広大な拝領屋敷

をもらいこの地に住んだから、人々は、この地を玄冶店と呼ぶようになった。


ここはまた、元吉原(明暦の大火で焼亡した後、吉原は浅草へと移転し、人形町の吉原を称して

元吉原といった)跡地にあたり、隣接した堺町葺屋町には芝居小屋があったりしたから、

芝居関係者である役者、長唄浄瑠璃の師匠などが多数住み、また日本橋大店の金持ちたちの

妾宅も多かった所である。


幕末に近くなった嘉永6(1853)年に、実話をもとに書かれた狂言『与話情浮名横櫛』に

女主人公のお富が、和泉屋大番頭の妾として囲われた住処としては、玄冶店はうってつけの

場所だったのである。

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江戸大店の若旦那与三郎は、木更津の親分の妾お富と恋仲になり、手下どもに斬られ34ヶ所の

キズをうけて海に投げ捨てられる。お富は入水を図る。

お富は一命をとりとめて、いまでは和泉屋の大番頭の妾となって、鎌倉の源氏店にくらしていた。

それともしらず、生き延びた与三郎は勘当をうけて、ヤクザな暮らしに身を持ち崩している。

ある日、ごろつきの蝙蝠安と源氏店の妾くらしの家に、強請目的で入り込む。

はからずも、与三郎は、死んだものと思いこんでいたかつての愛人お富と再会するのである。

しかし、お富は他人の囲われもの。

驚き、怨みつらみ、嫉妬、未練と怒り。

複雑な男心が言わせる名セリフが、「源氏店の場」で出てくるのである。




与三郎:え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、

    いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。

お 富:そういうお前は。

与三郎:与三郎だ。

お 富:えぇっ。

与三郎:おぬしぁ、おれを見忘れたか。

お 富:えええ。

与三郎:しがねぇ恋の情けが仇(あだ)

    命の綱の切れたのを

    どう取り留めてか 木更津から

    めぐる月日も三年(みとせ)越し

    江戸の親にやぁ勘当うけ

    よんどころなく鎌倉の

    谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても

    面(つら)に受けたる看板の

    疵(きず)がもっけの幸いに
 
    切られ与三と異名をとり

    押借(おしが)り強請(ねだり)やぁ習おうより

    慣れた時代(じでえ)の源氏店

    そのしらばけか黒塀(くろべえ)の

    格子造りの囲いもの

    死んだと思ったお富たぁ

    お釈迦さまでも気がつくめぇ

    よくまぁおぬしぁ 達者でいたなぁ

    安やいこれじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ

    帰(けぇ)られめぇじゃねぇか。


わくわく亭は少年のころ、この与三郎のセリフがかっこよく思えて、

すっかり記憶して、声色をつかって遊んだものである。



わくわく亭が京橋から越してきた人形町は、江戸文化の華の名残があちこちにある町で、

ブログのネタに当分困ることはなさそうだ。