「日本文学」と「日本語文学」

「日本文学」とは日本人作家が日本語で書いた文芸作品のことである。

「日本文学」に対して「外国文学」とは、外国人作家による外国語文芸とその日本語翻訳をいう。

内外の文学を分類するとして、従来この2つのカテゴリーに分類できた。

ところが、近年第3の分類カレゴリーが必要になってきた、とわくわく亭は思う。

それが「日本語文学」である。

「日本語文学」とは、日本語を母語としない外国人作家が、日本語で書いた文芸作品のことである。

日本語で小説を書き数々の文学賞を受賞しているアメリカ出身の作家にリービ英雄さんがいる。

野間文芸新人賞大佛次郎賞伊藤整文学賞を受賞し、『万葉集』の英訳で全米図書賞を受賞している。

(現在は法政大学教授もつとめる)

彼一人なら、わくわく亭が「日本語文学」などという新語をつくるまでもなかったのだが、2008年

に中国人女性の楊逸(ヤン・イー)さんが芥川賞を受賞した。

そして、この春文学界新人賞を受賞したのが イラン人女性のシリン・ネザマフィさんである。

これはどうしたことなのだろうか。

明治から今日までの長い日本文学の歴史に於いて初めての現象といえる。

いや、明治時代には『怪談』で有名な小泉八雲がいるではないか、とおっしゃるかも知れないが

小泉八雲ラフカディオ・ハーン)は日本語で書いたのではなく、英語で書いた。われわれが読んでいる

のは翻訳によるのである。つまり八雲は「日本語文学」ではないのだ。

日本語は外国人が文章にするには難しい言語だというのが通説だったではないか。

パソコンのお陰で、漢字変換が容易くなり、日本文が書きやすくなったという要因もあるだろう。

しかし、日本語でメールを送るのとは文章の質が違うはずだ。

なにしろ小説を書き、それがたくさんの日本語を母語として育った日本人による応募作品、候補作品

との競争に勝って文学賞を勝ち取っているのである。

エンタメ系、ゆるい恋愛小説、泣ける小説、描写の少ない会話主体の小説、これらが氾濫して

純文学系が書店の片隅に追いやられているのが現下の状況である。

新人文学賞の受賞作の質の低下はあきらかになっている。純文学の危機といえる。

この危機的状況の中にあって、日本の純文学を素養として学んできた外国人にとって、

正当な日本文学に適した日本語を身につけてきた作家志望のかれらにとって、

いまの状況はハードルが低くなって参入しやすいとでもいうのであろうか。



そんな折り、5月26日の日経新聞夕刊で「外国人の文学賞受賞相次ぐ・危機の日本文学を刺激」という

記事を読んだ。

記事の筆者は編集委員の浦田憲治さんである。

「外国人作家はこうした日本語や日本文学の危機を背景にして台頭してきたといえる。

後から学習した日本語で小説を書こうとする強い意志、テーマの新鮮さ、文体の深みなど様々な面で、

いまの日本文学を刺激」しているという。

つまり、日本語による創作への強い意志をもち、外国人らしく新鮮なテーマがあり、日本の古典文学

から学んだ深みのある文体をもっている、と外人作家の強さを分析する。

逆にいえば、そうした要素を日本人作家が失いつつあると言うことになる。

「興味深いのは、これらの外国人作家が、夏目漱石谷崎潤一郎から中上健次までの日本近代

文学の遺産を大事にしていることだろう」

現代の文学賞応募作家たちはマンガ、ライトノベル、エンタメ小説ばかりで育っているから、

ろくに近代文学の読書体験がない人が多くて、受賞という的を射る一発主義で、後がつづかない。

これでは、今後外国人による「日本語文学」がますます存在感を大きくすることになりそうだ。

浦田さんは、記事をつぎのように結んでいる。

(外人作家の作品を読んで)「久しぶりにまっとうな小説を読んだ気がして、懐かしかった、という

感想がわくのも、(日本近代文学の遺産を大事にしているという)ところからきている」

かれら外国人作家の「日本語文学」が「まっとうな小説」であるとしたなら、裏返せば

書店にあふれている「現代日本文学」に「まっとうな小説」は少ないと言っていることになる。