いしかわじゅんが見た岡崎京子
で手に入れた。1995年11月の発行である。
この評論集には100のマンガ作品を取りあげており、およそ90何人かのマンガ家を論じている。
(つまり同じ作者の複数作品を取りあげているケースもあるということだ)
いしかわじゅんが俎上にのせるほどのマンガ家は誰か、いま読むに値する作品はどれか、マンガ読書案内
として、あるいは現代マンガ事典として役立つと思って買ったのである。
聞いてみたいところである。
☆ ☆ ☆
彼は1980年代にセックスを大胆に描いた4人の女流マンガ家をあげている。
流れを作ったと認める。
「形だけ真似たできの悪い亜流がいっぱいいる。それは、それだけ、彼女(たち)の存在感が強かった
ことの証明だ」
1980年代のあるとき、彼の事務所が主催するパーティーに、まだ駆け出しでエロ本のカットなどを
描いていた時代の岡崎京子が彼のアシスタントのおつれとしてやってきたことがあった。
わがもの顔でのし歩いていた。
「若い男と抱き合っている。ほかの男とキスしている。ショートカットの少女は、そのころから、
キュートで傍若無人だった。
ああ、はるか遠くまできてしまったなあ、と最近の岡崎京子を見るたびに思う。
しかし、それは最初からわかっていたことだった、とも思う。
彼女には、最初から、才能があったのだ」
まことに率直でフェアな岡崎京子の第一印象である。
初対面から、その後の彼女の急成長に目を見張ったいしかわじゅん達の心境が端的に書かれている。
のキャラクターにそっくりな部分があるようだとわかるのだ。
岡崎京子さんは、自分を描いている、ということ。
高い。
「今では、彼女の特質はすでに〈絵〉にはない。岡崎京子の優れているのは、彼女の存在自体に
よっているのだ。
彼女は、いいわけをしない。後ろを振り返らず、自分の描くものをストレートに表現する。
(略)確かなものは、唯一、河原でみつけた死体、そして〈死〉だけだ。
奇妙な連帯感、そして喪失感。それらを、岡崎京子は、特別の解説もなしに、どんどん並べていく。
その圧倒的なドラマ。
ぼくはただ、唖然として見ているだけだ」
いしかわじゅんは正直な評論家である。