斎藤美奈子の文芸時評

辛辣な文章と、びっくり仰天するほど斬新な切り口で人気の文芸評論家、斎藤美奈子さんが、

いま朝日新聞文芸時評を担当している。

雑誌とは違い、かなり品のいい批評文になっているのも、朝日新聞という環境では、あまり

あけすけなカジュアルな文体では書きにくいのだろう。自主規制というか遠慮があるというか、

ま、しかたないだろうね。

「純文学と娯楽小説の違いは?」という見出しがついているので、斎藤美奈子さんはどういう

区分をつけるか興味があって読んでみた。

                 ☆

まず、全国の書店員が選ぶ「本屋大賞」に今年ノミネートされた上位10冊がすべて

エンターテインメント系だと紹介する。純文学は1冊もノミネートされていない。

新聞や文芸誌の時評が伝統的に純文学(純文と略すのも現今のハヤリらしいので、

以下それに倣う)偏重だったのとは大違いというわけ。

娯楽小説と純文とは、まず明らかに感触のちがいがある。

話の内容、すなわち何を描くか(WHAT)に力点があるのがエンタメ系、

表現の仕方、すなわちいかに描くか(HOW)に力点があるのが純文系、

を目安のひとつと考えてきた。だが最近、別の定義を思いついたのである。

具体例として森見登美彦の『恋文の技術』をとりあげる。

手紙形式の一人称小説で、純文学に分類されてもおかしくない作品だが、読後これはエンタメだと

気づく。

理由は単純。(略)『恋文の技術』は起承転結が完璧にキマッているのである。

そこで新定義。起承転結すべてがそろっているのがエンタメ系。

起承転結にこだわらない、または起承転結を壊すのが純文学。

そのため純文系は「ワケがわからない」といわれることがある。逆にエンタメ系は「ワケがわかりすぎ

る」ともいえる。

起承転結をきっちり決めすぎると、美しい物語はそこで終わってしまう。

後に引き摺るものがないのは寂しいじゃないか。

だからといって、純文学はエンタメ系より高級なのだ、という話ではない。

これは趣味趣向の差であって、本屋大賞にノミネートされるのはエンタメ系ばかりで

純文系は売れないと諦められているのが現状、つまり読者を獲得できない。

しかし、エンタメ系は強引に起承転結のそろった「出来のいいお話」に仕上げようとしている点で、

その力をHOWにふりむけて、

ときには着地を決めずに、マットの上でコケる、

あるいは着地寸前でトンズラしてもいいんじゃないか。

美しい結末のために削除された心の叫びを、ぶちまけていいのである。

『恋文の技術』の主人公は就職に不安を抱える大学院生であるが、貧困や労働を隠蔽しないで、

それをぶちまけろ、心温まっている場合ではない、と斎藤美奈子さんはいうのである。