文学の現状

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小説のサブカルチャー化を指摘したのは文芸評論家の江藤淳さんでした。(大塚英志サブカルチャー

文学論』)

1978年11月に、

「小説がカルチュアの座から顛落し、サブ・カルチュアに低迷しつつあるという感を、ますます深く

せざるを得ないのは遺憾である」

と書いてから文芸時評の仕事を一切行わなかったということだ。

それから既に30年が経過した。

江藤淳さんの指摘したサブ・カル化は着実に、そして加速的に進行した。

いまでは小説とマンガ、アニメが同列に論じられるようになったし、マンガやジュニア小説出身の

作家がライト・ノベルといわれる小説を書いて成功している。

書店にはマンガの表紙に衣替えした文庫版の芥川龍之介太宰治川端康成の小説が並び、

「泣ける」感傷的、感覚的な小説が花盛りである。

いまや、「純文学」的内容をもつ小説は隅に追いやられて、

エンタテインメント小説が量産され消費されている。

この現状を大江健三郎さんはどう見ているか。

12月16日の朝日新聞の連載「定義集」でつぎのように書いている。

いま純文学が(長い目で見れば、文学とは純文学のほかにないと私は信じますが)

読者を失っている、というのはこの国の文化的常識です。

私が新しい批評家に期待するのは、より広い場所で(つまり私ら旧世代の、

純文学への頭の固い信条などは相対化する若わかしい自由さで)

文学と読者との関係を再建してくれることです。

「この国の文化的常識」とは、かなり深刻な危機感を帯びた表現である。

大江さんはこうつづける。

人はある日、「文学」に出会う。

それが詩であるとすると、その詩人について知りたくなる。評伝によって詩人の全体像を知ることができ

る。評伝を書いた人は「読む人」であり、「読む人」によって彼は文学の精髄へと案内される。

「読む人」を師として、つぎには彼が「読む人」となる。

そうして、新しい小説家の誕生よりも、新しい批評家の誕生が自然だ。

読む力、能力はそうして涵養される。

その能力は、さらに考える力、書く力として蓄えられ成熟する、と大江さんはいう。

「純文学」の再生を、大江さんは「読む力」を蓄えた批評家に期待しているわけだ。

そして「読む力」をつけた小説家の誕生が、それにつづくと期待する。

現代人の「読む力」は、たしかに劣化しているかもしれない。

すると、

純文学の前途は、やはり多難である。

わくわく亭は純文学からエンターテインメント、さらにマンガも好きで読むのだが、

純文学とそのほかの小説が車の両輪のように読まれてほしいと思う。

純文学が読者を失っていき、その作家たちが消えてしまえば、「読む力」ばかりか

日本語の文章を「書く力」までが劣化し、衰退してしまうだろう。