托鉢の僧

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正法眼蔵随聞記』は曹洞宗開祖道元の弟子であった懐弉(えじょう)が書いた道元との対話編

です。親鸞における唯円による『歎異抄』のような存在といっていいでしょう。

どちらも、わくわく亭の愛読書ですが、『随聞記』には

「学道の人、身心を放下して一向に入るべし」

「百尺竿頭上なほ一歩を進む」

「無常迅速なり、生死事大なり」

など好きな言葉がたくさんあって、くりかえし読んでいます。

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大泉学園駅の階段下に、もう5年以上、ほとんだ毎日立つ托鉢の僧がいます。

わくわく亭はその托鉢僧を見かけると、かならず布施をしています。

その僧侶にかぎらず、街で托鉢修行する僧をみかけると布施をすることにしています。

それは、『随聞記』のなかで、懐弉が師の道元

「いまの世には、生活のために姿は僧形にしていますが、

実は布施を目的にしたニセの坊主が横行しています。

そんなニセの坊主が寺に来た場合にも布施はすべきでしょうか」

と訊ねる場面があります。

道元

「本物かニセものか問うまでもない。僧侶の姿をしていれば、

それだけで僧侶として大切にするべきである。仏法僧の三宝は敬うべし」

とまことに明解に答えています。                

それから、わくわく亭はどんな僧侶であれ、托鉢の僧には布施をすることにしているのです。

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駅の托鉢僧は65歳くらい。清潔な法衣を身につけて、笠をかぶっている。

左手に鉢を、右手に鈴を持つ。

5年以上も毎日のように会うと言っても、

「おはようございます」

「ありがとうございます」という短い挨拶を交わす程度。

たまに10日も姿が見えなかったりすれば、

「ご病気でしたか」

「この鉢をもつために、手首が腱鞘炎になりまして、すこし休んでいました」

といった具合。

それが、昨日、わくわく亭がいつものように

「おはようございます」といいながら小銭を鉢にいれて駅の階段へ向かいかけると、

「もし」と呼び返して、

「これをお持ちください」と写真のお守りをくれました。

「自分でこしらえたものです」

「ありがとうございます。ご坊はどちらのお寺からお越しなのですか」

とはじめて訊ねました。

「わたくしは比叡山延暦寺で学び、大津の三井寺で修行しておりましたが、

胃ガンを手術するために東京の病院に入りました。

これまで2度手術しまして、以来どちらの寺にも所属せず、

こうして托鉢をしながら修行することで病気を癒やすことにしています。

あなたには毎日お布施をいただき、

せめてこの手作りのお守りを差し上げようと持ってきたのです」

わくわく亭は、僧侶に合掌して、

「ありがたい」と思いつつ、駅の階段を上りました。