『つげ義春旅日記』(6)
「旅日記」の挿絵の一枚であるが、場所が明記されていない。
おそらく千葉県外房の大原の風景であろう。
つげ自身が作った「旅年譜」によれば、1969年の6月の旅行である。「当時はまだ交際間がない
〈現在の妻〉を同伴」している。
〈現在の妻〉を同伴」している。
大原は彼の母親の郷里だった。
結婚したら妻のマキと大原で暮らしたいと、安く買えそうな家を物色しにやってきたのだった。
彼は東京生まれだが、4歳のときには伊豆の大島にいた。父親が大島の旅館で板前をしていたからである。5歳のときに、一家は母親の郷里である大原に移り住んだ。
一年ほどすると、父親は東京に出稼ぎにいったまま戻らなくなった。仕事先の旅館で病気で倒れた
父親に、母と兄と彼の3人で会いに行ったときには、狭い布団部屋の中で危篤状態の父親を見た。
父親に、母と兄と彼の3人で会いに行ったときには、狭い布団部屋の中で危篤状態の父親を見た。
昭和19年には葛飾区の小学校に入り、母親は千葉の魚やノリの行商をした。
小学5年のとき、義父(母の再婚相手)がはじめたアイスキャンデー売りを手伝う。
貧しくて、彼も彼の兄も中学行くことが出来ず、小学校を卒業するとメッキ工場に働きにでる。
しかし、いやな職場でノイローゼになる。
14歳の時、きらいなメッキ工場の仕事から逃れるために、ニューヨーク行きの汽船にもぐり込んで
密航を企てるが、船内で発見され、横浜につれもどされる。
密航を企てるが、船内で発見され、横浜につれもどされる。
そば屋で働くが、赤面癖のノイローゼがひどくなり、他人と接触しないですむ職業として、マンガを描き始める。
彼の『颯爽旅日記』を読んでみる。
マキと大原へ行く。国民宿舎大原莊に一泊。 小浜の漁村の中を歩き、子どもの頃住んでいた家をマキに教える。いま見るとずい分小さな家だ。 父の墓もみせる。墓標がなくなっていてよく分からない。祖父の隣りだったように記憶していたが、 そこには親指ほどの細い棒切れが卒塔婆代わりに立ててあり、表面を削って戒名らしきものが書いてある。 こんな粗末なものが父の墓なのだろうか。母が墓参に来て立てたのか?よその墓だと思うが、胸が痛む。 タマチのネエ(母の姉)の家の前を素通りする。タマチのネエは昔、乞食のような暮しをしていて、子供をかかえ、よその家の玄関で寝起きをしていたという話を思い出す。 (略) 八幡岬の崖を登ってみる。水平線が一望。汐風が心地良い。漁に出た船が戻ってくるのがみえる。 なぜか目がしらが熱くなる。
大原は現在では千葉県いすみ市大原となる。
のが『ねじ式』で、この大原旅行の前の年1968年に発表された。