アヘン王里見甫(さとみはじめ)
日曜日に一時間あまりかけて佐野眞一さんのノンフィクション大作『甘粕正彦 乱心の曠野』について
書いたところが、投稿寸前で、パソコンが原因不明のブラックアウトになってしまい、折角の
原稿が消失してしまった。
書いたところが、投稿寸前で、パソコンが原因不明のブラックアウトになってしまい、折角の
原稿が消失してしまった。
おなじ文章を思いだして書くなんて、とてもシャクだから、『甘粕…』の「大杉栄一家虐殺の真実」と「満州国の夜の帝王」については、気持ちが立ち直ってから書き直す。←たかがブログ。でも
書いたものが消えてしまったショックは経験したものでないと分かりませんよね。(これまでも2,3回やって、痛い思いをしている)
書いたものが消えてしまったショックは経験したものでないと分かりませんよね。(これまでも2,3回やって、痛い思いをしている)
そこで、気分をかえて、同じ作者による『阿片王 満州の夜と霧』について、ちょっと書く。
佐野さんは満州事変から日中戦争、そして戦後日本を通して考えるときに、この甘粕正彦、里見甫の2人を抜きにしては正しく検証できないと言うほどに重要な、日本近代史の裏面に暗躍したキーマン
として位置づけている。
として位置づけている。
仮出獄ののち満州へ渡った甘粕は、満州国建国への功績から、満鉄映画の理事長という要職につくが、それは表の顔であって、いまひとつは「満州の夜の帝王」(昼間の帝王は関東軍)と呼ばれるほどの絶大な権力を握った裏の顔をもつ。
それは莫大な利権と資金源があったからだが、いま一人の「妖怪」である里見甫も満州で関東軍内に地盤を築くと、日中戦争開始後、陸軍特務部の依頼でアヘンの流通を支配して莫大な利権を手にしたのであり、「アヘン王」の異名をもつ。
「アヘンを制するものは支那を制す。
時代の狂気そのままの暴走を重ね、「阿片王」の名をほしいままにしたその生涯を克明に掘り起こし、
「王道楽土」の最深部にうごめく闇紳士たちの欲望劇のなかに描き出す構想十年、著者の最高傑作!」
「王道楽土」の最深部にうごめく闇紳士たちの欲望劇のなかに描き出す構想十年、著者の最高傑作!」
さて、ようやく本題に入ります。
新潮文庫の宣伝だけをするために、これを書き始めたのではないのです。
「アヘン王巨利の軌跡 日中で資料発見相次ぐ 旧日本軍文書も」
この記事には、佐野眞一さんのコメントが付いている。
「里見は極端な秘密主義者だった。『右手がしていることは左手に教えるな』という言葉を
生涯の行動規範とし、直属の部下にすら仕事の全容を教えなかった。
生涯の行動規範とし、直属の部下にすら仕事の全容を教えなかった。
その里見が、アヘン取引につて自ら記した文書が見つかったのは初めてではないか。
日本軍の主導でアヘン専売制が敷かれた経緯や、『宏済善堂』の業務などが詳細に述べられ、
きわめて貴重な内容だ」
日本軍の主導でアヘン専売制が敷かれた経緯や、『宏済善堂』の業務などが詳細に述べられ、
きわめて貴重な内容だ」
新聞が報道したのは発見された文書のほんの一端にすぎないのだが、それでも驚くべき内容であることが
推測できる。
推測できる。
その背後に、まるでイギリスが清国に仕組んだアヘン戦争のおさらいをみるような日本軍による中国人への大規模なアヘン密売の実態がうかがえるのである。
アヘンを中国人に売って、稼ぎだした莫大な利潤は、当然陸軍が管理下に置いたのである。
(アヘンも罌粟を原料としており、アヘンをさらに精製し麻薬としての効果を高めたものがヘロイン
である)
である)
日本陸軍が麻薬の輸入、販売に組織的に手を染めていたとは、なんたる恥知らず!
その汚れた手について、いかなる弁解もきかない。
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新聞から、いくつか重要なポイントを抜き出してみよう。
日本側の新資料『華中宏済善堂内容概記』という文章によると、
三井物産の社史に、このアヘン・ビジネスの記録はのこっているのだろうか?
(2)上海に、日本の傀儡政権である『中華民国維新政府』が1938年に成立すると、
その部局管理下に『宏済善堂』という営業機関が設立された。
その理事長に里見甫が就任する。
あわせたアヘンの取扱高は、1941年で3億元だった。
3億元とは当時日本円では1億5500万円、現在の物価にして560億円の価値である。
これによると、
(4)陸軍特務部はアヘン中毒患者救済を名目にして、アヘン取扱を許可制にする布告文案を
作成して維新政府に提出したもの。
3省の人口2495万人。うちアヘン中毒者を3%の75万人と推定。
かれらにアヘンを販売して得られる税収は3173万元と見込んでいる。
現在の物価にして、日本円で約111億円である。
(5)表向きは中毒患者の救済としながら、軍部は傀儡政権に膨大な利潤があがるアヘン・ビジネス
を導入をさせた実態がうかがわれるのである。
こうした新資料が中国の若者たちの目にも触れることになる。
かれらはネットで、あらたな日本の過去の罪過として書き立てることだろう。
われわれにとって、つらいことではあるが、70年も以前のことだからと、耳を塞ぐことはできない。
事実を曲げるわけにはいかないのである。