徳永英明の歌声の秘密
という記事を読んだ。
わくわく亭は5月31日に「1/fのゆらぎの歌声」というタイトルで徳永のことを書いたのだが、
朝日の記者渡部薫さんの記事の紹介かたがた、“1/fのゆらぎ”とはなにかを、もう一度話しておこう。
渡部さんの記事を、とびとびに引用させていただこう。
女性歌手の名曲をカバーし、05~07年に発売した「VOCALIST]シリーズは累計350万枚
の売上を記録。
徳永の「女歌」は、たとえ切ない恋に身をよじり、愛の孤独にふるえる歌であっても、聴き手に
安らぎを運ぶ。原曲の芯を損なわずに、生々しい情念を絹で包み込むように響く。
の売上を記録。
徳永の「女歌」は、たとえ切ない恋に身をよじり、愛の孤独にふるえる歌であっても、聴き手に
安らぎを運ぶ。原曲の芯を損なわずに、生々しい情念を絹で包み込むように響く。
だが、その才能に徳永が向き合い、受け入れるまでには、長い時間がかかっていた。
86年にデビュー。「輝きながら」で念願のヒットに恵まれた。しかし、同時に葛藤も抱えた。
難病を患い、1年8ヶ月の休業もした。思うように歌が売れない時期もあった。
業界で「一度低迷したアーティストが、40代でここまで売れるのは奇跡に近い」といわれたV字回復。
一度失いかけたからこそ今は思う。
「自分の声は大切な楽器だ。人に歌を届けるために、自分はここにいる」
86年にデビュー。「輝きながら」で念願のヒットに恵まれた。しかし、同時に葛藤も抱えた。
難病を患い、1年8ヶ月の休業もした。思うように歌が売れない時期もあった。
業界で「一度低迷したアーティストが、40代でここまで売れるのは奇跡に近い」といわれたV字回復。
一度失いかけたからこそ今は思う。
「自分の声は大切な楽器だ。人に歌を届けるために、自分はここにいる」
一青窈の演歌っぽい節回しが、くどくて嫌いなのだ。
ところが、おなじ曲を徳永の歌声で聴くと、「時代」にしろ「ハナミズキ」にしろ、
文句のつけようがない名曲であることを認める。
なぜか。
徳永の声の質、彼の「1/fのゆらぎ」といわれる歌声に聞き惚れてしまうからである。
彼の声に、こちらの自我がとろけるように、無抵抗にゆだねてしまう。
それがモーツアルトの曲や、波の音、小鳥のさえずり、風の音とおなじ、人間にいちばん
安らぎをもたらす1/fの「ゆらぎ」があるからなのだ。
僕は07年10月30日の記事『1/fゆらぎ』のなかで、それがどんなものなのか、物理学者から
ちょっとにわか勉強したものを書いているので、ここに再掲載します。
“1/fゆらぎ”とは何か?
“ある物理的な量や質が刻々変化するとき、その量や質が平均的には一定の周期、
間隔を示しているようにみえますが、正確に測定すると、わずかにズレが生じていることがあります。
それは予測できない微妙なズレで、それが「ゆらぎ」なのです。
自然界にあるすべての現象には変化があり、ズレて、ゆらいでいます。
星のまたたきは決して等間隔ではないし、打ち寄せる海の波にもズレがあります。
太陽や星でさえ、すこしずつ、ゆらぎながら軌道運動しており、大体の動きの予測はできても、
完璧な予測はできません。岩石だって、温度によって膨張したり、収縮します。
小川のせせらぎ、そよふく風、木漏れ日、鳥のさえずり、白銀の世界でかがやく陽光、
かげろう、などなど、自然界の現象には「ゆらぎ」が満ちています”
人間の生体リズムにも「ゆらぎ」がある。
心臓の鼓動や体温の変化、呼吸数にも変化がある。脳波にもズレがある。
「ゆらぎ」のある人間がつくるのだから、人間のつくるものすべてに「ゆらぎ」がある。
そのため、1/fゆらぎは人間に心地よさなど快適な感覚を与えてくれる。
といったものが懐かしさ、美しさ、優しさ、温かさを感じさせるのは、
すべて1/fゆらぎのせいなのだ。
バッハ、モーツアルトの名曲や日本の歌なども「ゆらぎ」が多いそうだ。
人間の生体リズムに合った曲は、聞く人の生体リズムに共鳴して、魅了する。
しかし1/fゆらぎになっていない現代音楽は、作為が強すぎて、別種の「ゆらぎ」になっているらしい。
人間がつくったものであっても、機械加工して精密なものにしてしまうと1/fゆらぎは失われてしまう。
機械的に大量生産された製品、近代的なビル建築には1/fゆらぎは存在しない。