エンド・オブ・ザ・ワールド

イメージ 1


岡崎京子の短編集『エンド・オブ・ザ・ワールド』のタイトルとなった作品である。

アメリカを舞台にした男女の殺人犯の逃避行を描いた作品。アメリカのバイオレンス映画によく見る
粗筋ではあるが、そうした映画の要素を取り込みながら、岡崎スタイルのマンガに仕上げてある。

殺害されたのは大富豪の男とその後妻。殺害犯人は男の実の娘モリーと、後妻の連れ子である男の子イース

イースは溺愛し支配しようとする母親が嫌いだった。モリーは父親の性的な抑圧から逃げ出したかった。
義理の兄妹となった2人は協力して、両親を殺し、金と旅券をもって車で逃げ出した。

ところが、慣れない(慣れないのが普通だが)逃避行で、へまばかりする。
証拠隠滅のため燃やした車には、すべての手持ちの金と旅券が入っていた。

一文無しとなって、ヒッチハイクをしながら逃走する。間抜けなスケベー(たいてい間抜けはスケベーはアメリカ映画でも)日本人をモリーがひっかけて、イースがエモノをぶちのめして、「犯罪者」らしくなっていく。

しかし、若いかれらは、すぐに逃避行につかれてしまう。砂漠の夜、2人がはじめて関係をもった翌朝、イースはねむいからという理由だけで、ピストルで自分の頭を撃ち抜いて死んでしまう。

イースの顔には、砂漠の中だというに、すぐにハエが飛んできてとまる。
ウジがわくのは時間の問題だ。

モリーは彼を土の下に埋めて、ヒッチハイクをする。
「あたしはどこまで行けばいいの?」
「ああ、つめたいミントソーダがのみたい」といいながら、世界の果てまで?

この物語では、舞台は日本よりアメリカのほうが描きやすかっただろう。

イースの自殺には心理的には無理があると思うのだが、絵で描いて見せられると、
へんに納得させられる。

どこまで逃げたって、死んだら、あのハエがとまりにくる。
「世界の果て」まで行っても、いつかあのハエにはとまられる。

だったら、いま冷たいミントソーダを飲んでいよう。
かなり、ペシミスティックなエンディングに思える。