リバーズ・エッジ(岡崎京子)
「リバーズ・エッジ」が手に入った。
もう“幻の本”の領域に入りかけていたコミックだ。
105円コーナーにあったそうだ。
「ええっ、よく見つけたね」
ラッキー!
僕は「買い取るから、よろしく」と、昨日持ち帰って読んだね。
(彼女には、僕が新本で買ってきた「セカンド・バージン」を交換で渡した。)
正確にいえば、帰りの地下鉄のなかで読み始め、大泉学園駅前のレストランで(昨晩は女房が
お出かけで、「あなた、晩ご飯は食べてきてくださいね」といわれていたから)
夕食をとりながら読んで、残りは家でビールを飲みながら午前1時になって読み終えた。
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都会の汚れた川の河口近くにある高校が物語りの舞台。
高校生たちにも、「欲望」という得体のしれないものが、浸潤している。
暴力的な男の子は好きな女の子を、自分の「欲望」のままに「性交渉」の相手にして、
その身勝手な「欲望」の強さを「LOVE]だと思いこんでいる。
その身勝手な「欲望」の強さを「LOVE]だと思いこんでいる。
そのLOVEの虚しさに気づきはじめている主人公の少女ハルナは、だからといって、
彼の暴力的な行為を拒むのでもない。
彼の暴力的な行為を拒むのでもない。
ただ、なにか本当のことじゃないものに、自分はあくせくしているという、不安と空虚を
抱きながら、にぎやかな毎日の学校や家庭での「おしゃべり」に、不安と空虚をまぎらわして
生きている。
抱きながら、にぎやかな毎日の学校や家庭での「おしゃべり」に、不安と空虚をまぎらわして
生きている。
いじめられっ子のイケメンの少年がいて、ハルナが彼を助けたことから、彼と親しくなる。
彼はホモだが、それ以上に河口の草原に転がった、朽ち果てた人間の死骸を「宝物」と呼んで、
いじめにあったりすると、それを見ることで、勇気が湧いてくるという「変わりもの」だった。
いじめにあったりすると、それを見ることで、勇気が湧いてくるという「変わりもの」だった。
しかし、自分がなにを求めているのかが、彼にはわからない。
モデルをしている美少女がいて(この子の顔は、『ヘルタースケルター』の主人公りりこに
そっくりだ)彼女は摂食障害に苦しんでいるのだが、その苦しみがどこからきて、これから
どうなるのか、(つまり欲望に浸潤されている自分について)まだ知らない幼稚さがある。
そっくりだ)彼女は摂食障害に苦しんでいるのだが、その苦しみがどこからきて、これから
どうなるのか、(つまり欲望に浸潤されている自分について)まだ知らない幼稚さがある。
ハルナの友達の一人は、大人との○○交際でブランドものを手にして、自慢しているが、家に
閉じこもりのデブの姉がいて、姉妹は憎み合っている。
「欲望」に身をまかせている妹と、それを軽蔑しながら嫉妬している姉。
閉じこもりのデブの姉がいて、姉妹は憎み合っている。
「欲望」に身をまかせている妹と、それを軽蔑しながら嫉妬している姉。
こうして、腐った河口の匂いのような、現代の断面である高校生活に、陰惨な事件が起きる。
憎み合う姉妹は姉が妹をナイフで斬りつける最悪の事態となり、ハルナはホモ少年を庇った
ことから彼氏の暴力的な性行為の犠牲となって、なんとなくかれとの「LOVE」が終わる。
ことから彼氏の暴力的な性行為の犠牲となって、なんとなくかれとの「LOVE」が終わる。
「欲望」がこころを侵し、少年少女たちをメッタヤタラと傷つけてしまうのだが、なぜ、どうして、
と彼らは考えもしないままに、学年が終わり、終業式があり、卒業していく。
と彼らは考えもしないままに、学年が終わり、終業式があり、卒業していく。
彼ら(彼女ら)はそんな場所で出逢う。事故のように出逢う。偶発的な事故として。 無力な王子と王女。深みのない、のっぺりとした書き割りのような戦場。 彼ら(彼女ら)は別に何らかのドラマを生きることなど決してなく、ただ 短い永遠のなかにたたずみ続けるだけだ。
作者は少年少女たちへの深い同情のあまり、彼らを「平坦な戦場」における無抵抗な、
無力な犠牲者としてのみ見ているが、彼らはまた、生きる方法を身につけて、
「欲望」との付き合い方を学びながら、したたかさをもって生きていく「戦士」にも
なるはずだ。
無力な犠牲者としてのみ見ているが、彼らはまた、生きる方法を身につけて、
「欲望」との付き合い方を学びながら、したたかさをもって生きていく「戦士」にも
なるはずだ。
まさに、彼女の身に起きた。
「(彼女は)そんな場所で出逢う。事故のように出逢う。偶発的な事故として」
いたましいことに、岡崎京子は「平坦な戦場」で倒れた戦士となった。