リバーズ・エッジ(岡崎京子)

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リバーズ・エッジ」が手に入った。

もう“幻の本”の領域に入りかけていたコミックだ。

わくわく亭の仕事場の女の子が、秋葉原古書店で発見したもの。

105円コーナーにあったそうだ。

「ええっ、よく見つけたね」

ラッキー!

僕は「買い取るから、よろしく」と、昨日持ち帰って読んだね。

(彼女には、僕が新本で買ってきた「セカンド・バージン」を交換で渡した。)

正確にいえば、帰りの地下鉄のなかで読み始め、大泉学園駅前のレストランで(昨晩は女房が

お出かけで、「あなた、晩ご飯は食べてきてくださいね」といわれていたから)

夕食をとりながら読んで、残りは家でビールを飲みながら午前1時になって読み終えた。


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岡崎京子の本で一番人気が、この「リバーズ・エッジ」だったという理由が分かる。


都会の汚れた川の河口近くにある高校が物語りの舞台。

時代は『ヘルタースケルター』に先行して1993/3~94/4に描かれているから、バブル
経済の真っ只中だ。

高校生たちにも、「欲望」という得体のしれないものが、浸潤している。

暴力的な男の子は好きな女の子を、自分の「欲望」のままに「性交渉」の相手にして、
その身勝手な「欲望」の強さを「LOVE]だと思いこんでいる。

そのLOVEの虚しさに気づきはじめている主人公の少女ハルナは、だからといって、
彼の暴力的な行為を拒むのでもない。

ただ、なにか本当のことじゃないものに、自分はあくせくしているという、不安と空虚を
抱きながら、にぎやかな毎日の学校や家庭での「おしゃべり」に、不安と空虚をまぎらわして
生きている。

いじめられっ子のイケメンの少年がいて、ハルナが彼を助けたことから、彼と親しくなる。

彼はホモだが、それ以上に河口の草原に転がった、朽ち果てた人間の死骸を「宝物」と呼んで、
いじめにあったりすると、それを見ることで、勇気が湧いてくるという「変わりもの」だった。

しかし、自分がなにを求めているのかが、彼にはわからない。

モデルをしている美少女がいて(この子の顔は、『ヘルタースケルター』の主人公りりこに
そっくりだ)彼女は摂食障害に苦しんでいるのだが、その苦しみがどこからきて、これから
どうなるのか、(つまり欲望に浸潤されている自分について)まだ知らない幼稚さがある。

ハルナの友達の一人は、大人との○○交際でブランドものを手にして、自慢しているが、家に
閉じこもりのデブの姉がいて、姉妹は憎み合っている。
「欲望」に身をまかせている妹と、それを軽蔑しながら嫉妬している姉。


こうして、腐った河口の匂いのような、現代の断面である高校生活に、陰惨な事件が起きる。


ホモ少年を恋する少女がいて、彼女は彼の性癖を知らないままに、ハルナを恨む。ハルナの家に
放火をして自分は焼身自殺をしてしまう。

憎み合う姉妹は姉が妹をナイフで斬りつける最悪の事態となり、ハルナはホモ少年を庇った
ことから彼氏の暴力的な性行為の犠牲となって、なんとなくかれとの「LOVE」が終わる。

「欲望」がこころを侵し、少年少女たちをメッタヤタラと傷つけてしまうのだが、なぜ、どうして、
と彼らは考えもしないままに、学年が終わり、終業式があり、卒業していく。

物語とリアルタイムに生きていた少年少女たちをが、「リバーズ・エッジ」を支持した理由が
わかるよね。



岡崎京子は「あとがき」で、傷つく彼らに、「平坦な戦場」を生き延びてくれ、とエールを送りながら、
こんな風に結んでいる。


彼ら(彼女ら)はそんな場所で出逢う。事故のように出逢う。偶発的な事故として。

無力な王子と王女。深みのない、のっぺりとした書き割りのような戦場。

彼ら(彼女ら)は別に何らかのドラマを生きることなど決してなく、ただ

短い永遠のなかにたたずみ続けるだけだ。


作者は少年少女たちへの深い同情のあまり、彼らを「平坦な戦場」における無抵抗な、
無力な犠牲者としてのみ見ているが、彼らはまた、生きる方法を身につけて、
「欲望」との付き合い方を学びながら、したたかさをもって生きていく「戦士」にも
なるはずだ。

その次の物語を書く前に、岡崎京子さんは、酔っぱらいが運転する車にはねられて再起不能となった。

まさに、彼女の身に起きた。

「(彼女は)そんな場所で出逢う。事故のように出逢う。偶発的な事故として」

いたましいことに、岡崎京子は「平坦な戦場」で倒れた戦士となった。