「朝顔」と植木玉厓(うえきぎょくがい)

ブログを忙しく書いていると、小説を書かない。小説を夢中で書いていると、ブログは書かない。

「書く」ことをつかさどっている脳内の細胞分野が同じだろうから、ブログと小説と、どちらかを充分に
書くと、他方はおろそかになるのは当然のことだろう。

去年の5月からブログを書くようになると、小説を書くペースが落ちた。かなりの在庫があったので、
穴をあけることはなかったが、在庫がそこをつきかけている。

これではナラジ、とペースを取り戻そうと小説を仕上げにかかっている。ブログの更新ペースは、そのためにやや低下傾向にある。

去年の秋にとりかかった小説が、一応の脱稿をみた。120枚ほど。

文化文政期から正当な狂歌をつくる「天才」として活躍して、天保10年に59歳で没した
植木玉厓について書くつもりだった作品。

最初は大田南畝の外伝として、玉厓の生涯をかくことを企図していたのだが、途中で気が変わった。

現代小説として書くことに変更した。

大田南畝について本を書いている主人公が、ひょんなきっかけから、
植木玉厓を研究している魅力的な女と知り合って、恋に落ちる話にしたのである。

奇しくも昨夜、七夕の夜に小説は出来た。(はたして、2人は結ばれたか?)

縦糸が、妻のある55歳の男と、43歳ですでに二人の娘があり、上の娘には二人目の子、つまり孫が
ある女との恋愛。女には10年も別居しているとはいえ夫がある。彼らが江戸の南畝と玉厓の狂詩について語り合い…。

縦糸があれば横糸がある。
それは南畝が玉厓に贈った狂詩の「謎解き」である。

玉厓は一年間、京都二条城へ単身赴任する。一年が無事にたって江戸に帰府したとき、
南畝は次のような狂詩を贈って祝った。

    田助は已(すで)に全快すれど、

    朝顔はいまだしばらくは開かず。
 
    にわかに鑾峰(らんほう)の至る有りて、          

    猶嵐吉の來たるかと疑う。

この詩の「謎」とは?

詩の意味は、歌舞伎役者の澤村田之助はしばらく病気をしていたが、全快して芝居に
復帰しているが、わが家の朝顔はまだしばらくは開花しそうにない。

にわかに京から江戸に戻った鑾峰(植木玉厓)が挨拶にやってきたが、
ちかごろ京から江戸に下ってきた美男役者の嵐吉三郎が来たかと疑った。

とまあ、玉厓への帰国祝いの詩だけに、彼のイケメンぶりをヨイショしている。

ここで、わが主人公は疑問を持った。

澤村田之助は美貌の女形役者だったそうで、「朝顔日記」の“朝顔”は当たり役だったと聞く。

武士の娘みゆきは恋しい男を探し歩くうちに、盲目となり、
名前を“朝顔”と変えて門付けをして街道を流浪する悲恋物語である。
ラストで彼女の眼が明くところが見せ所。

南畝先生は、田之助が病気全快して芝居で「朝顔」を無事に演じることができ、
朝顔”の眼は明くことになって目出度いが、わが庭の朝顔はまだ…、とうたったものだろう。

その裏付けをとろうと、しらべるのだが、歌舞伎関連の文献、事典をみても、
朝顔日記」をもとにして芝居は『生写朝顔話』(しょううつしあさがおばなし)のことで、
天保3年に三世澤村田之助が、稲荷座で演じたのが「初演」だったとなっている。

天保年間には大田南畝はすでに生きてはいない。
また南畝が「朝顔」の芝居を見たのは文化13年のことで、(玉厓が江戸に戻ったのも文化13年の
夏)そのころの田之助は二世だった。

さて、こまった。
はたして、二世澤村田之助は“朝顔”役をじっさいに文化13年に演じていたのか。

そうでなければ、上のように狂詩の解釈はできないではないか。



と、いうぐあいに、狂詩の「謎」の解明が小説の横糸となってすすんでいく。

ちょっとした、推理小説もどき。

ところで、その答えは、YES!!

『時鳥貞婦噺』(ほととぎすみさおばなし)という興行名で演じられていた。
文化13年5月5日のことだった。

この事実を発見したときの、わくわく亭の喜びようったらなかったね。

あ、失礼。わくわく亭ではなくて、小説の主人公が喜んだ、のだった。

参考に、現代最高の人気女形である玉三郎さん演じるところの“朝顔”の姿をUPします。

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ちなみに、平成8年8月発行の『歌舞伎名作事典』から「生写朝顔話」の項をひいてみよう。

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上に述べたように『生写朝顔話』は天保3(1832)年、稲荷座での上演が初演だったのは
正しいようです。

しかし、この筆者が、「二世澤村田之助」としているのは間違い。「三世」とすべきである。

単なる校正時の誤りだろうがね。←(わくわく亭の皮肉)