高麗神社の作家たち(6)

坂口安吾檀一雄、(文藝春秋の)中野の3氏は昭和26(1951)年10月18日に埼玉県日高市にある高麗神社へやってきた。

安吾のエッセイ『高麗神社の祭の笛』に神社到着のシーンがこう書かれている。

出発がおそかったので、コマ神社に到着したのは、タソガレのせまる頃であった。
社殿の下に人がむれている。
笛の音だ。太鼓の音だ。ああ、獅子が舞いみだれているではないか。なんという奇妙なことだろう。
「今日はお祭りだろうか?」
自動車を降りて、私たちは顔を見合せたのである。

安吾のわくわくとした表情が伝わってくる。

それは秋の例大祭を翌日(10月19日)に控えて最後の練習をしていたのだった。

翌日が獅子舞奉納のある例大祭ときくと、それを見逃す安吾と一雄ではない。

翌日はカメラマンを加えて4人の男たちが、高麗へ、高麗からは徒歩で神社に、出直したのである。

檀一雄邸では、ご婦人方が朝からお弁当づくりに多忙である。
昨日の三人に写真の高岩君を加え、四人の大男が獅子舞い見物ピクニックとシャレこんがからだ。
お酒があるから男の大供のピクニック弁当も重たいものだ。

子供ではなく、「大供」と書く安吾のうきうきしたピクニック気分が、読んでいてもたのしくなる。

その日に撮って、文藝春秋に掲載された高麗の獅子舞の写真がこれである。
鮮明度が低いのはお許し下さい。

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高麗神社に伝わる獅子面の写真もまた掲載された。
左が室町時代、右が江戸時代の作とされている。

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4人は社務所で弁当をひらいた。

参拝の人々の記名帳をひらくと、阿佐ヶ谷文士一行が来ておって、太宰治の署名があったが、
呆れたことには、参拝者の大部分が政治家で、特に総理大臣級がはなはだ多く参拝している。
わたしは妙な気持ちになって、
「どういうわけで、こう政治家がたくさん来るんだろう?」
と呟くと、宮司は笑って、

宮司は「当社のお守りは総理大臣になるお守りだそうで…」と解説している。

(参拝名士の名札でも見た太宰治であるが、この安吾の高麗神社参詣の3年前である昭和23(1948)年に、多摩川上水で情死している。)

いかにも安吾らしく、お守りを10枚買ったのである。
それを友人たちに配給して、みんなを総理大臣にするこんたんだった、とシャレている。

日ぐれて、一行は石神井の檀邸に戻ってきた。
檀家のご婦人方へのおみやげは「赤飯」だった。

坂口安吾の『高麗神社の祭の笛』はつぎのような、ほほえましい文章で結ばれている。
安吾檀一雄一家への親愛があふれていて、安吾・一雄ファンとしては、すこぶる心地のいい結びである。

檀君の長子太郎にも総理大臣のオ守りを配給したが、翌朝、太郎はカバンをひッかきまわしながら、
「モウ、オ守りをなくしたよ。それでも、大丈夫?大丈夫だねえ」
なにが大丈夫なのか知らないが、総理大臣になるコンタンでもなさそうに見えた。

あと一回つづきます。