高麗神社の作家たち(5)
坂口安吾は小説のほかに、日本の歴史や風俗文化に材を得た独創的エッセイを多数書いている。
安吾が高麗神社に檀一雄とともに訪れ、芳名帳に記帳したのが昭和26(1951)年10月18日だった。
その取材が「高麗神社の祭りの笛」という古代史エッセイとなって、『文藝春秋』12月号に掲載された。『安吾新日本地理』シリーズの一編として書かかれたものだった。
その取材が「高麗神社の祭りの笛」という古代史エッセイとなって、『文藝春秋』12月号に掲載された。『安吾新日本地理』シリーズの一編として書かかれたものだった。
作品を読もうとすると、安吾全集のほかに、河出書房から文庫もあるのではないか。
わくわく亭が読んでいるのは『安吾の古代史探偵』(講談社 1976)で、これが出版されたころは、古代史ブームで、『まぼろしの邪馬台国』(宮崎康平)、『日本の中の朝鮮文化』(金達壽)などがベストセラーになっていた。
その年(1951)安吾は46歳だったが、(安吾は50歳で脳溢血のため死去する)まず2月には大阪へ取材旅行をして、檀一雄とともに、故人となった織田作之助ゆかりのバーなどを回っている。
織田作は1947年に結核のため34の若さで死んでいる。
織田作は1947年に結核のため34の若さで死んでいる。
10月16日、競輪が好きだった安吾が、伊東競輪における写真判定に不正があったと告発したのである。
マスコミはこれを安吾の錯覚として書き立てたから、安吾は被害妄想をいだき、告発騒ぎからおよそ1ヶ月の間、練馬区石神井町にあった檀一雄宅に身を潜めることになった。
マスコミはこれを安吾の錯覚として書き立てたから、安吾は被害妄想をいだき、告発騒ぎからおよそ1ヶ月の間、練馬区石神井町にあった檀一雄宅に身を潜めることになった。
そして、10月18日に取材のために高麗神社へ行くことを思いつくのである。
食後、タクシーを呼んでもらって、高麗神社へと向かっている。
〈回を改めて話がつづく。〉