高麗神社の作家たち(2)

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高麗(こま)神社について説明をしておこう。

高麗とは朝鮮の高句麗(こうくり)のことです。
UPした写真は神門ですが、掲げられている扁額(へんがく)には、はっきりと「高句麗」と書かれています。

この神社がユニークなのは、日本人が祭神ではないことだ。朝鮮半島高句麗からの渡来人が祀られている神社だということ。

神社の公式HPから抜粋しながら、神社の歴史を紹介しよう。


《高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗(こうくり)国からの渡来人、
高麗王若光(こまのこしきじゃっこう)です。

高句麗は、紀元前1世紀ころ建国されたといわれています。
若光が渡来した年代についての社伝はありませんが、『日本書紀天智天皇称制5(666)年10月、
高句麗から派遣された使節の中に「二位玄武若光」の名があります。

続日本紀文武天皇大宝3(703)年に当社の御祭神が「従五位下高麗若光に王の姓(かばね)を賜う」とあり、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書記』に
ある「玄武若光」と同一人物と思われます。

若光は元正天皇霊亀2(716)年武蔵の国に新設された高麗郡の首長として、当地に赴任してきました。
当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の
各地から移り住んだ高麗人1799人とともに、当地の開拓にあたりました。

若光が没したあと、高麗郡民はその徳をしのび、御霊を「高麗明神」として祀りました。

これが当社創建の経緯です。》


日本の神社の縁起や由来には、神話や伝説が混入しているものが多くて、歴史として読むのが無理だと思うことがありますが、この高麗神社のHPは文献学的な客観資料にもとづいた創建の歴史を語っています。

高句麗のことをいう高麗(こま)と、まぎらわしい国名として高麗(こうらい)があります。

こうらいは10世紀のはじめ、高句麗の再興をめざした新羅の遺臣らによって建国されたもので、
高句麗(高麗=こま)とは区別されます。

古代史の勉強はこれくらいにしておいて、はやく作家たちの名札に戻りたいのです。

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明治16年から近年までに、神社参詣におとづれた名士や著名人の名札が参道入り口脇に掲げられています。

朝鮮半島に由来する神社だけに、朝鮮、韓国の政界、官界の著名人や作家の名前が多いのは不思議ではありません。最近では柳美里さんの名前がありました。

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名札の板が新しすぎるものがあります。
風雨にさらされているので、板が腐ったり、文字が消えたりしたものについては、適宜に作り直しをしているだろうが、人気のある名前の札は、盗難に遭うこともあるだろう。
太宰治なんかは、その口ではないだろうか。