高麗神社の作家たち(1)
西武鉄道で飯能駅へ向かい、秩父行きに乗り換えて2つ目の駅が「高麗駅」である。
高麗神社には、これまで3回ほどお参りしているが、いつも駅からは30分ほど歩いて行った。
今回は、駅前から公衆電話でタクシーを呼んで、車で向かう。
わくわく亭の健脚も、ちかごろ衰えたか、楽がしたくなったのである。
高麗神社には、これまで3回ほどお参りしているが、いつも駅からは30分ほど歩いて行った。
今回は、駅前から公衆電話でタクシーを呼んで、車で向かう。
わくわく亭の健脚も、ちかごろ衰えたか、楽がしたくなったのである。
昨年の10月7日のブログ記事「高麗の巾着田」で、100万本のヒガンバナを紹介したが、そのときにも、巾着田のあとで高麗神社に回る予定でいたところ、道路が渋滞でタクシーが来なかったから、
徒歩で行く元気もないので、諦めたいきさつがある。
徒歩で行く元気もないので、諦めたいきさつがある。
それというのも、10月15日のブログ記事では、坂口安吾の推理小説「木のごときもの歩く」を取りあげているが、安吾の「高麗神社の祭りの笛」もつづけて紹介したいと思っていたので、神社の写真が欲しかったのである。
はじめて高麗神社を訪れたのは24年ほど前のことで、当時わくわく亭は日本の古代史に興味をもって勉強していたから、それで一家4人(夫婦と息子2人)でハイキングをかねて出かけたのだった。
高麗駅から歩く道が、舗装してない田舎のでこぼこ道であり、風が吹いたり車が通過すると、すさまじい砂埃を浴びることになって、家族3人には大不評のハイキングだった。
高麗駅から歩く道が、舗装してない田舎のでこぼこ道であり、風が吹いたり車が通過すると、すさまじい砂埃を浴びることになって、家族3人には大不評のハイキングだった。
子供たち(当時小5と中1)にとっては、なんのお楽しみもないハイキングで、途中一軒の売店も自販機すらないホコリの道。神社前にある食堂が、飲食できるただ一ヶ所のオアシスであり、帰りはまたまた砂漠道だったから、かれらはすっかり不機嫌で口もきかなくなってしまった。
ご機嫌、すこぶるご機嫌だったのは、父親のわくわく亭ただ一人。
なぜなら、神社参道入り口わきにこしらえてある、「名士芳名」の名札を並べた掲示板に、わくわく亭が
あこがれていた作家たちの名札が揃っていたからである。
なぜなら、神社参道入り口わきにこしらえてある、「名士芳名」の名札を並べた掲示板に、わくわく亭が
あこがれていた作家たちの名札が揃っていたからである。
それは、明治16年以降に高麗神社に参拝した著名人たちの名簿ともいうべきものだった。
安吾と檀とが昭和26(1951)年に高麗神社をそろって参詣したことは、かれらの作品を読んでよく知っていたから、格別の感慨があったのである。
「しまった、カメラがない。この名札を写真に撮れないのは残念だな~」
わくわく亭ひとりが興奮しているのを、妻も息子たちも、まるっきり無関心。
わくわく亭ひとりが興奮しているのを、妻も息子たちも、まるっきり無関心。
その後も2度訪れていながら、普段カメラを持ち歩かない人間だったからか、作家たちの名札を写すことがなかった。
あっというまに、はじめておとづれてから24年の時はながれた。
今回はブログにUPというハッキリした目的があるから、デジカメ持参だった。作家たちの名札を撮影するためにやってきたのだから当然のことだった。
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ここで訂正があります。
わくわく亭の女房が、3回高麗神社に行った中の1回は、自宅から彼女が運転する車で行ったのだと
申します。そういえば、わくわく亭の母(91歳で2年前に死去)が一緒のことがあった。母に
100万本のヒガンバナを見せてやろうと、女房の車で行った途中だった。
申します。そういえば、わくわく亭の母(91歳で2年前に死去)が一緒のことがあった。母に
100万本のヒガンバナを見せてやろうと、女房の車で行った途中だった。
ということで、高麗駅から往復歩いたのは2回ということに、訂正します。
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高麗神社とは何なのだ?
回を改めて紹介します。