『橋づくし』(2)三吉橋

わくわく亭の仕事場は、京橋2丁目の、鍛冶橋通りと昭和通りが交差した室町信号の角にあります。
昭和通り沿いに南へ150メートル歩くと、銀座1丁目です。2つ目の信号を左に入りますと、
前方200メートルのところに見えるのが三吉橋(みよしばし)です。

わくわく亭の仕事場から歩いて、ものの5分といった距離です。
写真は昭和通りを三吉橋へと曲がる角から、橋を撮ったもので、写真の奥に見えにくいでしょうが、三吉橋があります。

二枚目が三吉橋で、三つ叉の橋です。
橋下は首都高速が走っており、東京オリンピックのための埋め立て工事で、昭和37年を最後に築地川から水の流れはなくなってしまいました。
イメージ 1

イメージ 2


三島由紀夫の小説では、4人の女たちは、わくわく亭とは逆に昭和通りを新橋方向からやってきて、この角で右折して、三吉橋に向かいます。

三島の文章を引用しましょう。


四人は東銀座の一丁目と二丁目の堺(さかい)のところで、昭和通りを右に曲がった。(略)
月光はその細い通りでは、ビルの影に覆われている。
程なく四人の渡るべき最初の橋、三吉橋がゆくてに高まって見えた。
それは三叉の川筋に架せられた珍らしい三又の橋で、
向う岸の角には中央区役所の陰気なビルがうずくまり、(略)
橋の欄干は低く、その三又の中央の三角形を形づくる三つの角に、
おのおの古雅な鈴蘭燈が立っている。
(略)
川水は月のために擾(みだ)されている。


二枚目の写真に鈴蘭燈は写っています。しかし、月のために擾されている「川水」はいまはありません。

橋のたもとに三島の『橋づくし』を記念するための石碑が立っています。その碑のそばから現在の中央区役所ビルをカメラに収めました。

イメージ 3


このビルは昭和44年に完成した新庁舎であり、三島が執筆のため現場踏査したときに見た「陰気なビル」とは違っています。旧庁舎は43年に解体されているのです。

三島が見た「陰気な」旧庁舎は昭和4年に、関東大震災で被害を被った京橋区役所を復興竣工したビルで、三つ叉の三吉橋が架設されたのもその時でした。

三島が見た「陰気なビル」と、まだ川水があった築地川が写った写真をUPします。

イメージ 4


たしかに、巨大な蝦蟇がうずくまったように、趣の欠けらもない、醜悪な建築であり、水郷「築地川」の情趣をぶちこわしにしています。それでも、まだ堀割に流水だけはありました。

いまは、コンクリートでこしらえた、車道が白々と醜体を陽にさらしているだけです。

日本は戦後の高度成長経済時代に国土を掘り返して「土建屋国家」になりさがりました。
経済効率という合理主義が、江戸から明治まではかろうじて保存してきた美しい日本の風土を、どれほど無惨に破壊してきたことか。

かわりに建築、建造してきた「道路」のなんと無味乾燥で醜いことか。
日本橋の上を走っている高速道路が、その醜さの象徴です。ヨーロッパの首都で、その街を代表する橋の景観を、これほどまでに無視した道路建設をする「馬鹿な」文明国がありますか。
それも、東京オリンピックの誘致のためでした。

いまのオリンピックのための建築ラッシュにまつわる,北京市内のゴタゴタを笑えるものではないのです。

さらにですよ、「必要な道路」として今後も10年間「道路特定財源」56兆円を費やして「醜い高速道路」を造り続けようと大合唱する政治家たちの顔は、この旧庁舎の「陰気な」醜さそのものではないでしょうか。