築地川(2)「築地橋」

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鏑木清方(かぶらき・きよかた)の画名を聞いて、わくわく亭が真っ先に思い起こす作品は、「一葉」(樋口一葉像)と「三遊亭圓朝像」です。そしてかずかずの美人画ですね。

清方に風景、花鳥図がないのではないのですが、殆どは人物画か、風景に人物を配した情景画、風俗画です。
「築地川」も明治時代の築地川かいわいの人々の生活風景を画いた風俗画集です。

「築地川」は紙本(しほん=紙に画かれた書画)で、12枚の絵を収めた折り本です。もちろんオリジナルはどこかのコレクターの収蔵ですから、われわれは印刷画で見ているのです。

ここにUPした絵は「築地橋」(つきじばし)です。

橋のこちら側が新富2丁目であり、橋向こうは築地2丁目です。
橋の位置が分かるように、地図をUPしておきます。

地図の上方が銀座東です。三つ叉の三吉橋が見えます。それを下方(東)に来て最初の橋が築地橋です。
そのまま道路を下りますと、佃大橋のある隅田川で、三吉橋から隅田川まではおよそ1キロの距離です。
1キロしかないのだから、わくわく亭が毎日のように京橋から佃や鉄砲洲界隈をほっつき歩ける道理です。

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橋のたもとには新富座がありましたから、役者衆ののぼりが立ち並びます。
季節は夏の夕暮れ時でしょうか。柳の木陰では客待ちをする人力車が涼んでいますが、梶棒の先には提灯の用意がしてあるし、橋の上の車も、岡持を運ぶ仕出し屋も提灯をぶらさげています。


川の水位が高そうなのは、東京湾から取り込んだ海水が、満潮時で上がってきたのかもしれません。すると、かすかに潮の匂いがしているかも。
なんとなく、すがすがしい気分にさせてくれる清方の絵です。

左には芝居茶屋が見えています。たくさんの提灯にも灯がはいっているようです。

新富座は、数軒の茶屋の先にありました。

現在の都税事務所がある場所に新富座はありました。税務署の入り口近くに、中央区が立てた史跡の標識があるので、それをUPします。守田座が明治5年に浅草から移転してきて、明治22年に木挽町歌舞伎座が開場するまでの期間、東都演劇の首座を占めていた、その歴史がくわしく説明されています。

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さてと、この「築地橋」を鏑木清方が画いたのは昭和16年でしたが、それは彼の記憶に残った明治時代の築地橋の光景だっだのです。

東京都中央区の公開している橋の架設記録をみると、築地橋は大正12~14年にかけて鉄の橋として架け替えられています。それ以前の橋は木製だったでしょう。
しかし、それより古い架橋の記録はありません。

わくわく亭が愛用する「江戸切り絵図」には「合引橋」はあっても築地橋はありません。

それでは、明治のいつごろの風景として画かれたのだろうか、と考えてみるところが過去や歴史を散策する者のお楽しみである。

清方は明治11(1878)年の8月に、神田佐久間町に生まれています。
翌年築地1丁目に転居。5歳で新富座からも近かった私立鈴木小学校に入学します。
7歳になると、木挽町1丁目に転居。その住居に明治26年(1893)15歳になるまでおりました。
それからは、『やまと新聞』を発行していた父親の経営難で、東京各所に転々として暮らしています。

となると、清方の5歳~15歳までの10年間の記憶にある「築地橋」だといえるでしょう。
それは明治16~26年にあたります。

ここで前回「鏑木清方の『亀井橋』」にUPした古地図を、もう一度しらべてみます。
わくわく亭と同様好奇心旺盛の方はそれを見てください。
「合引橋」(現在の三吉橋)はあるが、築地橋はないですよ。
この地図は明治政府の地理局地誌課が制作したもので、明治12年制作です。
つまり、木製の築地橋は明治12年にも、まだ架かっていなかった。

それではと、わくわく亭は別の古地図を取り出しました。(歴史小説を書いたりするので、古地図はいろいろ集めているのです)

こちらは明治19年陸軍参謀本部編になる「東京五千分一図」です。
これには、はっきりと合引橋の東に築地橋が確認できます。

するとどういうことになりますか。
清方少年が5歳で私立小学校に入学した明治16年に木橋があったかどうかは不明ですが、彼が8歳になった明治19年には築地橋はありました。

絵を見てみよう。

いま、市川左団次をはじめとする役者の名前を染めた幟の下を、人力車の後を追うかのように橋を駆け上がる少年がいます。
それが鏑木清方の記憶に残る明治19年ころの少年すがたの彼自身だったかもしれません。

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おつぎは現在の築地橋の写真です。

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さいごの写真は築地橋の橋下の光景です。高速道路の連絡道になっていますが、なんとも無惨というべきありさまです。

投げ捨てられたゴミが散乱していましたが、わくわく亭もさすがに、それを写真には撮れません。

鏑木清方の郷愁を誘った水郷「築地」はあとかたもありません。