生麦事件(なまむぎじけん)
オランダ商館員が撮影した幕末のお江戸写真をご覧いただいていますが、幕末は幕府の開国政策と、尊皇攘夷派との激しい抗争が続いた時代であり、平和なお江戸風景ばかりをご披露というわけには参りません。
写真家はどうしても事件現場を撮りたくなるものらしくて、写真集『甦る江戸』には、外国人を巻き込んだ事件関連の写真が多数含まれています。
その中の一つが生麦事件です。
日本史ではかならず勉強するし、吉村昭の小説『生麦事件』(新潮文庫)で読んだ人もあるでしょうし、
数ある幕末の物騒な事件のなかでもよく知られた事件で、外交問題となって、イギリスと薩摩藩との戦争にまで発展する原因をつくった事件です。
数ある幕末の物騒な事件のなかでもよく知られた事件で、外交問題となって、イギリスと薩摩藩との戦争にまで発展する原因をつくった事件です。
オランダ人ベアトが撮影した生麦村の事件現場写真です。
当時のカメラも撮影技術もすぐれものであったことが分かります。写真は右半分が切れていますが、実物は右に生麦村の畑や森のひろがりまでも捉えており、よくもこれほどの広角撮影ができたと感心する出来映えです。
見ての通りの狭い道幅です。四頭の馬で、乗馬のままでは、行列とトラブルになって当然でしょう。
これを藩士が無礼討ちにして、リチャードソンは死亡、2名が負傷、のこる1名は女性で無傷だったが、彼女も精神に異常をきたして程なく死亡しました。
死亡したリチャードソンの写真です。
撮影したのが誰かは不明ですが、イギリス側の写真師が撮ったものでしょう。
撮影したのが誰かは不明ですが、イギリス側の写真師が撮ったものでしょう。
われわれの世代が学んだ歴史教科書では、薩摩藩士の行為を前近代的な野蛮な行為として、一方的に非難していました。
日本の大名行列には、一般の通行人は下馬して、道のわきで控えて敬意を表するという習慣があったが、その習慣を知らなかった外国人をいきなり斬り殺すなどとは、近代化された西欧のモラルからして、あまりの蛮行であり、鎖国主義で攘夷を叫んでいた大名の傲慢な攘夷意識が引き起こした非道であると非難していました。
この事件のあと、薩英戦争となり、薩摩藩はイギリスの武力国力を認識して、はじめて開国意識に目覚める、というように歴史教科書は書いていました。
日本の大名行列には、一般の通行人は下馬して、道のわきで控えて敬意を表するという習慣があったが、その習慣を知らなかった外国人をいきなり斬り殺すなどとは、近代化された西欧のモラルからして、あまりの蛮行であり、鎖国主義で攘夷を叫んでいた大名の傲慢な攘夷意識が引き起こした非道であると非難していました。
この事件のあと、薩英戦争となり、薩摩藩はイギリスの武力国力を認識して、はじめて開国意識に目覚める、というように歴史教科書は書いていました。
これは、おそまつな歴史認識というものです。西欧側からの視点だけで歴史を書くと、こんなおそまつな内容になります。
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「WIKIPEDIA」をのぞいてみると、なんと、まったく同じベアトの写真を掲げています。
そしてこの事件発生直前に、おなじ行列と遭遇したアメリカ領事館員バンリードの書き残したものを紹介しています。
彼は「すぐさま下馬した上、馬を道ばたに寄せて行列を乱さないように道をゆずり、脱帽して行列に礼を示した。バンリードは大名行列を乱す行為がいかに無礼なことであるか、礼を失すればどういうことになるか理解しており、のちに生麦事件の状況を知った彼は『彼ら(イギリス人)は傲慢にふるまった。自らまねいた災難である』とイギリス人4人を非難する意見を述べている」
彼は「すぐさま下馬した上、馬を道ばたに寄せて行列を乱さないように道をゆずり、脱帽して行列に礼を示した。バンリードは大名行列を乱す行為がいかに無礼なことであるか、礼を失すればどういうことになるか理解しており、のちに生麦事件の状況を知った彼は『彼ら(イギリス人)は傲慢にふるまった。自らまねいた災難である』とイギリス人4人を非難する意見を述べている」
「WIKIPEDIA」筆者はバンリードの意見を敷衍して、つぎのように述べています。
1)彼らの祖国イギリスでは、貴人が馬車や乗馬姿で通る場面に遭遇したら、下馬して道をゆずり、脱帽して敬意を示して見送ることが礼儀とされていた。そのマナーを東洋で無視したのは、アジアの異民族にたいして侮辱的だった。
2)来日後の期間が短かったが、リチャードソンは中国での滞在期間は長かった。「アジア人には強い意志で対応することが大事だ」と差別的な意識があり、中国人を馬上から鞭で打つような行為をおこなう人物だった。日本人にたいしても、そうした差別的な意識が働いて、この惨事をまねいた。
2)来日後の期間が短かったが、リチャードソンは中国での滞在期間は長かった。「アジア人には強い意志で対応することが大事だ」と差別的な意識があり、中国人を馬上から鞭で打つような行為をおこなう人物だった。日本人にたいしても、そうした差別的な意識が働いて、この惨事をまねいた。
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こうした意見もあって当然のことです。
ホンコンで中国人を蔑視し、鞭打って従わせてきたイギリス人が、東洋の後進国である、小さな日本の大名行列に遭遇して、
「さっさと、道を渡ってしまえばよかろう。彼らの行列が行き過ぎるまで、下馬して敬礼するほどのことはあるまい」とあなどった、と推測してもおかしくないでしょう。
「さっさと、道を渡ってしまえばよかろう。彼らの行列が行き過ぎるまで、下馬して敬礼するほどのことはあるまい」とあなどった、と推測してもおかしくないでしょう。
世界の歴史を読むときに、西欧の歴史家によって書かれたものを、われわれは信じてしまいます。ギリシャ、ローマの時代から、戦争の勝者が書いた歴史を読まされるのです。
たとえば、十字軍の遠征の歴史ですが、キリスト教国である西欧の側から書かれた歴史が普及しています。イスラムの側から書いた中央アジアの歴史はかえりみられないのです。
読んでみると、びっくりです。どうみても、正義は十字軍側にはありません。まるで、文化文明国を
略奪するための軍国主義が十字軍遠征だったように見えてきます。
歴史は誰が書いたのか、という視点を忘れないで読みたいものです。
たとえば、十字軍の遠征の歴史ですが、キリスト教国である西欧の側から書かれた歴史が普及しています。イスラムの側から書いた中央アジアの歴史はかえりみられないのです。
読んでみると、びっくりです。どうみても、正義は十字軍側にはありません。まるで、文化文明国を
略奪するための軍国主義が十字軍遠征だったように見えてきます。
歴史は誰が書いたのか、という視点を忘れないで読みたいものです。
しかし、その時代には、そうした社会的なルールがありました。それが社会の秩序を護っていたことは事実なのです。
戦後の歴史教科書が、イギリス人の側から「蛮行」を非難する立場で書くだけで、日本人の、その時代の意識については「封建的」「前近代的」と切り捨てて、西欧民主主事の勝者の歴史を書いていたということを、この写真を見ながら、わくわく亭は考えました。