本因坊

イメージ 1


到来物のお酒「本因坊」です。昨日届いたものです。

原酒ですから冷酒で飲むように、とあります。アルコール度数は18~19度くらい。

醸造元は尾道市因島田無町の「備南酒造」。

このお酒を贈ってくださったのは尾道NPO法人「てごう座」という演劇集団を主催している

田島美鈴さんです。「サンカンペンの壺」へのお返しです。

手紙にこうあります。

 先日、因島を回っていましたら、島嶼部で唯一自家醸造されている備南酒造さんで、
今年の一番搾りのお酒が手に入りました。
 名前が「本因坊」です。秋の公演を計画しています私どもにとりまして、良い宣伝をさせていただこうと、贈らせていただきます。



てごう座の秋の創作演劇は、因島が生んだ碁聖本因坊秀策を取り上げるようです。

あらためて酒のラベルをたしかめると、碁盤を前にした本因坊秀策の肖像が描かれています。

そしてその横に、「銘柄書体は本因坊秀策の自筆。安政4年因島外浦の生家で」と「本因坊」の

銘柄とした書体は秀策の手であることが記されています。

イメージ 2



         ―――――――――――――――――――――――――――――――

 秀策については囲碁ファンであれば大抵の人がその名前は知っているはずです。

 NHKに『その時世界は動いた』という番組がありますが、2006年7月に放送した「碁聖

本因坊秀策の無敗伝説」によっても秀策の名前は知られたことでしょう。

 ところで、驚いたことに少年や少女までが秀策を知っているらしいのです。

 それは人気マンガ『ヒカルの碁』の影響です。

 主人公のヒカルには平安の棋士藤原佐為の霊がとりついているのですが、その霊はヒカルの前には、

江戸時代末期に本因坊秀策にとりついていたという設定があります。

 マンガファンの子供たちは、そのため「史上最強の棋士」として秀策の名前を知っていたのです。


 本因坊秀策は文政12(1829)年に因島外浦に生まれました。

 7歳のとき、三原城主の浅野侯と囲碁の対局をして、その棋力を認められます。

 「こりゃあ、天才少年じゃのう」というわけ。

 11歳で5人扶持を賜って、城主のお抱えとなる。

  のちに、江戸に出ますが、20歳で本因坊として12代将軍家慶から認許されます。

 江戸時代には囲碁の家元が4家あって、毎年一回将軍や老中の前で対局して覇を競うという「御城碁」

というものがあり、21歳で秀策は出仕しました。

 そうして、嘉永2(1849)年から文久元(1861)年までの13年間、19戦して19勝すると

いう前人未踏の大記録を樹立します。それが上記NHKの「無敗伝説」なのです。

 今日でも秀策は、日本の囲碁史上最強の棋士であるといわれています。

 1862年、アメリカのペリー提督が黒船で来航しましたが、黒船はコレラという疫病をもたらしまし

た。秀策はそのコレラに感染して34歳で早世してしまいます。

 因島の秀策生家跡には「石切神社」とともに「秀策記念館」があって、いまも多数の囲碁ファンがおま

いりしています。


 因島尾道市と合併したのが2007年春でした。

 それまでは本因坊秀策は因島市の偉人でしたから、尾道ではさほど著名とは言えませんでした。

となり町の偉人が世間で騒がれれば騒がれるほど、こちらの町ではその人物にたいして、やや冷たくなる

のが浮世の常識。

ところが、市の合併により、秀策は尾道市因島町の歴史上の偉人となりましたから、俄然、秀策の人気

尾道でも高くなっているようです。もはや、「となり」の人ではなくて、「うち」の人なのですもの。

 旧尾道市で秀策が人気になると、旧因島市の住民は自分たちだけの恋人がとられた、といったような一

抹の淋しさを感じるかもしれないですね。

それって、やはり浮世の常識じゃん。


     ―――――――――――――――――――――――――――――――――


 というようなワケで、わくわく亭は夫婦で原酒「本因坊」を賞味する幸運にめぐまれたのです。

 さて、お味のほうは「史上最強」といえるかどうか。

 これから、封を切って、栓を抜くところです。