想いだしてね…時々は



ちあきなおみが唄う「紅とんぼ」の歌詞にあるリフレインである。

新宿駅裏 紅とんぼ 想いだしてね…時々は」

作詞は吉田旺で、作曲はいうまでもなく船村徹である。

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ちあきなおみの歌唱については、おどろくほどたくさんの証言があるのです。

それは、ほとんどすべてといってもいいくらい、彼女の歌が「語りうた」だという証言です。

ある音楽評論家は、

「彼女は洋楽からスタートしたが、シャンソンをよく聞いている。1974年中野サンプラザでは

シャンソンを何曲か披露した。旋律を唄うより、語るような歌唱になっていく…」


宮川泰夫は、この「紅とんぼ」を「演歌ではなく、語り歌」だと評しているとか。


作曲した船村徹も、ちあきなおみに、

シャンソンのように語る方面に歌唱の幅を拡げたほうがいい」

とアドバイスしており、その結果が『紅とんぼ』という語り歌に結実したのだ、と消息通が語っている。


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 新宿駅裏の、おそらく小さな酒場。

 その女将さんか、ママとよぶのがふさわしいのか、とにかく、なにかの事情で店仕舞いをするという。

 店仕舞いの最後の夜に、お別れに常連客が集まっている。

 ツケは帳消しにするから、店にのこったお酒は全部飲んでいって、という。

 どうせ貢ぐ相手もない身で、だれも貰ってくれそうもないから、故郷へかえるのよ、と。

 そうはいったって、

「たった5年で店仕舞いするからには、深いわけがあるだろうに」と客は思っているよ。

「故郷(くに)って、北の方だったっけ。そういえば、ママにはどこかのナマリがあったナ」

「冗談じゃないぜ、こんないい女、貰い手はどこにだってあるはず。男運が悪いっていうか、

きっと、そんな苦労が身にしみて、いちどは故郷に戻るハメになったとかいうんだろうゼ」

「故郷でしあわせとは、限らない。ひとに知られぬように戻っていって、ひっそりと、隠れるようにして

暮らすんじゃないのか。かわいそうに」

 などと、客たちは腹のうちで考えちゃあいても、口には出さない。

 しょせん、浮世はそんなものさ。


「しんみりしないでよ…ケンさん」

「あ~あ、見てご覧よ、しんみりするから、チーちゃんが泣いちゃったじゃないの」

「さ~さ、いつものように、しんちゃん、歌って。ね、騒いでよ。おねがい」

     
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 新宿駅裏とだけいって、歌詞は場所をくわしく語らない。

 西口ならば、戦後の「しょんべん横丁」いまの「思い出横丁」だろうか。

 西口の安田生命の裏のあたりか。

 東口の武蔵野館付近の飲み屋街か。

 いかにも、どこにでもありそうな、小さな酒場「紅とんぼ」である。

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 わくわく亭は関西から上京してきた昭和38年頃、中央線沿線に住んでいたので、新宿、中野、高円

寺、阿佐ヶ谷、荻窪、と各駅に途中下車しては、安い酒場に入り浸っていました。知人も友達も、まして

や恋人もいない東京にきたわけで、仕事が終われば、アパートの万年床へまっすぐ帰れっこない。

 そのころ、「紅とんぼ」のような店はあった。いい子がいたね。

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 去年の12月、銀座の、これも小さな酒場が店仕舞いした。

 こちらは「5年ありがとう」という短い期間ではなくて、40年も続いていたカウンターバーだった。

 わくわく亭は20数年のなじみだった。

 この店については『ビリヤードわくわく亭』の「音がはずれてるよ」に書いた。

 ママがメニエル病とかで、仕事がきつくなったためだった。

 店仕舞いの通知で、毎夜なじみの客は、別れを惜しむためやってきた。

 ママがわくわく亭に「いつもの、わたしがだいすきな『メリージェーン』を歌ってね」と頼まれたけ

ど、「今夜は、うってつけの歌があるから、唄いたい」と、(気障だっていうか?)

 とにかく唄ったのが『紅とんぼ』だった。


「年内にもう一度、お顔みせてね」と涙ぐまれたのだが、こちらが「めまい」で救急病院に入院したり

して、その約束は果たしていないのです。