プロレスがやってきた
昭和30(1955)年に尾道にプロレス興行がやってきた。
その年の何月何日だったか、残念ながら不明です。わくわく亭にはその興行について何一つ記憶がないのです。
会場は久保小学校の校庭です。
ごらんの通りの大変なプロレス人気でした。観衆のほとんどが男性客でした。木に登っているものがいれ
ば、柵にのぼっているものもいます。
そのわずか4年前の昭和26年に、力道山は遠藤幸吉とともにプロレスに転向し、ハワイに渡ります。
28年に帰国すると日本プロレス協会を設立。
29年にはアメリカからシャープ兄弟をまねいて、日本初の国際試合を行いました。
それが、2月19日からはじまった力道山、木村政彦組対シャープ兄弟の試合です。
テレビによる試合中継が人気をあおり、日本にプロレスヒーバーが巻き起こりました。
会場となった蔵前国技館には、13,000人の観衆が詰めかけるし、東京新橋西口の街頭テレビジョン前には2万人が殺到したといわれています。
翌昭和30年には元横綱東富士(あずまふじ)がプロレス入りします。
そして、同年プロレスの地方興行が尾道で、久保小学校の校庭にリングを組んで催されたのですから、尾道の男たちが、この狭い会場に押し合いへし合いしながら、日本中を熱くしていたプロレスを見んものと、殺到したのも無理はなかったのです。
力道山は来ていなかったのではないでしょうか。遠藤幸吉、沖識名クラスがきたのではないでしょうか。
写真は『ふるさと想い出写真集』(国書刊行会)から。
その年の何月何日だったか、残念ながら不明です。わくわく亭にはその興行について何一つ記憶がないのです。
会場は久保小学校の校庭です。
ごらんの通りの大変なプロレス人気でした。観衆のほとんどが男性客でした。木に登っているものがいれ
ば、柵にのぼっているものもいます。
そのわずか4年前の昭和26年に、力道山は遠藤幸吉とともにプロレスに転向し、ハワイに渡ります。
28年に帰国すると日本プロレス協会を設立。
29年にはアメリカからシャープ兄弟をまねいて、日本初の国際試合を行いました。
それが、2月19日からはじまった力道山、木村政彦組対シャープ兄弟の試合です。
テレビによる試合中継が人気をあおり、日本にプロレスヒーバーが巻き起こりました。
会場となった蔵前国技館には、13,000人の観衆が詰めかけるし、東京新橋西口の街頭テレビジョン前には2万人が殺到したといわれています。
翌昭和30年には元横綱東富士(あずまふじ)がプロレス入りします。
そして、同年プロレスの地方興行が尾道で、久保小学校の校庭にリングを組んで催されたのですから、尾道の男たちが、この狭い会場に押し合いへし合いしながら、日本中を熱くしていたプロレスを見んものと、殺到したのも無理はなかったのです。
力道山は来ていなかったのではないでしょうか。遠藤幸吉、沖識名クラスがきたのではないでしょうか。
写真は『ふるさと想い出写真集』(国書刊行会)から。