「秋山小兵衛」の小鍋だて
年賀状を書いたりする季節になりました。
そこで、5月に書いた「池波正太郎さんの年賀状」という記事を読み返すのですが、あらためて、池波さんの作家としての凄みを感じています。
その記事は、池波さんが出す年賀状の枚数が、晩年6000枚に達しており、宛名をすべて手書きで書いたという朝日新聞の「天声人語」を読んでの驚きを書いたものでした。
池波さんには『鬼平犯科帳』『仕掛人・藤枝梅安』『剣客商売』といった時代劇の人気シリーズがあって、全国にはおびただしい数のファンがいます。それにしても、6000枚の年賀状にはびっくりです。
6000枚を書くとなれば、12月になって書くのでは間に合いません。池波さんは毎年1月から12月まで、毎日のように書いていたと、奥様の話でした。計算すると、一ヶ月に500枚、一日に15枚書いたことになります。あれほどの人気作家が、多忙な原稿書きの合間に、翌年の年賀状を、1月から毎日書きためていたとは、驚き以外のなにものでもありません。
なぜ、それほどまでに?と凡人のわれわれは、いぶかしく思うところです。
「だれでもが手書きのものを喜ぶし、わたしからの年賀状を、みんなが毎年待っていてくれるから」とこともなげに池波さんは話したそうです。
池波さんが亡くなったのは、その年の5月のことでしたから、翌年分の年賀状は、かなりの枚数がすでに書いてあったことでしょう。それはどうなったのでしょうか。
奥様は「そんなに早々と翌年分の年賀状を書いておいて、もし病気でもして、あなたが亡くなったら、どうします。無駄になっていまいますよ」と冗談で訊いたことがあったそうです。
池波さんの返事はこうでした。
「わたしが死んでも、書き上げた年賀状は、そのまま出してくれ。みんなが池波正太郎からの年賀状を
楽しみにして待っていてくれるのだから」と。
それほどまでに、読者を大切にした作家が、池波正太郎さんだった。その心意気がどの作品にも色濃くにじんでいます。だから、あなたのファンは、いつまでも、あなたのファンでいます。
といったことを、「わくわく亭」書庫に書いたのですが、全文は5月21日の記事で読んでみてください。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
わくわく亭は池波さんの小説はもちろんのこと、エッセイも好きです。
ごらんのように、文庫本も繰り返し読んだために、すっかりくたびれています。
年賀状のことのほかに、なにか紹介しようと、『味と映画の歳時記』(新潮文庫)を開いてみました。
この本は「味の歳時記」「映画の歳時記」とから成っていて、1月~12月までの月ごとの随筆に、池波さん自らが書いた挿絵と、自らが撮った写真を加えて、池波ファンには、こたえられない滋味あふれる好著なのです。粋で、おしゃれな構成になっています。
2月の項が「小鍋だて」です。
小説『剣客商売』の主人公秋山小兵衛のモデルを、この短文で公開しています。
その風貌は旧友の歌舞伎役者である中村又五郎からとった、と明かしています。又五郎さんは、とても小柄な役者さんだったから、なるほど、小柄の小兵衛は又五郎さんがモデルか、と頷ける。
「つぎに、一つのヒントをあたえてくれたのは、むかし、私が株式仲買店ではたらいていたころ、大変可愛がってもらった三井老人だった」
当時池波さんはティーンエージャーで、兜町ではたらいていた。
60に近い三井老人は、兜町で現物取引店の外交をして、いかにも質素な身なりであり、
《どこかの区役所の戸籍係のようで、とても株の外交をしているように見えなかった。
深川の清澄町の小さな家に、二匹の猫と、まるで娘か孫のような若い細君と暮らしていたが、
金はたっぷりと持っていたようだ》
これだけでも、『剣客商売』の読者であれば、秋山小兵衛のイメージがわいてくるはずです。
老人の家で、池波少年は「小鍋だて」をはじめて見た。
細君がお湯に行って留守なので、老人が長火鉢にかけた小さな土鍋でこしらえる料理を、少年にすすめてくれたのです。
《底の浅い小鍋へ出汁(だし)を張り、浅蜊と白菜をざっと煮ては、小皿へ取り、柚子をかけて食べ る。
小鍋ゆえ、火の通りも早く、つぎ足す出汁もたちまちに熱くなる。これが小鍋だてのよいところだ》
三井老人は、まるで池波少年を一人前の大人として、もてなしてくれるのです。
すぐに、おとなの真似をしたがって、「小鍋だて」をやりたがる池波さんに、老人は、
「こんなもの、若い人がするものじゃあない」と強いてすすめようとはしなかった。
《ところが、四十前後になると、私は冬の夜の小鍋だてが、何よりたのしみになってきた。
五十をこえたいまでは、あのころの三井さんのたのしみが、ほんとうにわかるおもいがしている》
池波さんは、自分で考案した、さまざまな食材を「小鍋だて」にして紹介する。
いや、読んでいるだけで、すぐにも「小鍋だて」を真似したくなってくるよ。
そして、さいごの一行。
《三井老人は深川が戦災を受けたときに亡くなったそうな》
UPしたイラストは池波さんが画いた三井老人と後ろ姿の三井夫人の図です。
これを書きながら、わくわく亭は、台所のどのあたりに小さい土鍋があったかなあ、と思い出そうとしていますよ。
そこで、5月に書いた「池波正太郎さんの年賀状」という記事を読み返すのですが、あらためて、池波さんの作家としての凄みを感じています。
その記事は、池波さんが出す年賀状の枚数が、晩年6000枚に達しており、宛名をすべて手書きで書いたという朝日新聞の「天声人語」を読んでの驚きを書いたものでした。
池波さんには『鬼平犯科帳』『仕掛人・藤枝梅安』『剣客商売』といった時代劇の人気シリーズがあって、全国にはおびただしい数のファンがいます。それにしても、6000枚の年賀状にはびっくりです。
6000枚を書くとなれば、12月になって書くのでは間に合いません。池波さんは毎年1月から12月まで、毎日のように書いていたと、奥様の話でした。計算すると、一ヶ月に500枚、一日に15枚書いたことになります。あれほどの人気作家が、多忙な原稿書きの合間に、翌年の年賀状を、1月から毎日書きためていたとは、驚き以外のなにものでもありません。
なぜ、それほどまでに?と凡人のわれわれは、いぶかしく思うところです。
「だれでもが手書きのものを喜ぶし、わたしからの年賀状を、みんなが毎年待っていてくれるから」とこともなげに池波さんは話したそうです。
池波さんが亡くなったのは、その年の5月のことでしたから、翌年分の年賀状は、かなりの枚数がすでに書いてあったことでしょう。それはどうなったのでしょうか。
奥様は「そんなに早々と翌年分の年賀状を書いておいて、もし病気でもして、あなたが亡くなったら、どうします。無駄になっていまいますよ」と冗談で訊いたことがあったそうです。
池波さんの返事はこうでした。
「わたしが死んでも、書き上げた年賀状は、そのまま出してくれ。みんなが池波正太郎からの年賀状を
楽しみにして待っていてくれるのだから」と。
それほどまでに、読者を大切にした作家が、池波正太郎さんだった。その心意気がどの作品にも色濃くにじんでいます。だから、あなたのファンは、いつまでも、あなたのファンでいます。
といったことを、「わくわく亭」書庫に書いたのですが、全文は5月21日の記事で読んでみてください。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
わくわく亭は池波さんの小説はもちろんのこと、エッセイも好きです。
ごらんのように、文庫本も繰り返し読んだために、すっかりくたびれています。
年賀状のことのほかに、なにか紹介しようと、『味と映画の歳時記』(新潮文庫)を開いてみました。
この本は「味の歳時記」「映画の歳時記」とから成っていて、1月~12月までの月ごとの随筆に、池波さん自らが書いた挿絵と、自らが撮った写真を加えて、池波ファンには、こたえられない滋味あふれる好著なのです。粋で、おしゃれな構成になっています。
2月の項が「小鍋だて」です。
小説『剣客商売』の主人公秋山小兵衛のモデルを、この短文で公開しています。
その風貌は旧友の歌舞伎役者である中村又五郎からとった、と明かしています。又五郎さんは、とても小柄な役者さんだったから、なるほど、小柄の小兵衛は又五郎さんがモデルか、と頷ける。
「つぎに、一つのヒントをあたえてくれたのは、むかし、私が株式仲買店ではたらいていたころ、大変可愛がってもらった三井老人だった」
当時池波さんはティーンエージャーで、兜町ではたらいていた。
60に近い三井老人は、兜町で現物取引店の外交をして、いかにも質素な身なりであり、
《どこかの区役所の戸籍係のようで、とても株の外交をしているように見えなかった。
深川の清澄町の小さな家に、二匹の猫と、まるで娘か孫のような若い細君と暮らしていたが、
金はたっぷりと持っていたようだ》
これだけでも、『剣客商売』の読者であれば、秋山小兵衛のイメージがわいてくるはずです。
老人の家で、池波少年は「小鍋だて」をはじめて見た。
細君がお湯に行って留守なので、老人が長火鉢にかけた小さな土鍋でこしらえる料理を、少年にすすめてくれたのです。
《底の浅い小鍋へ出汁(だし)を張り、浅蜊と白菜をざっと煮ては、小皿へ取り、柚子をかけて食べ る。
小鍋ゆえ、火の通りも早く、つぎ足す出汁もたちまちに熱くなる。これが小鍋だてのよいところだ》
三井老人は、まるで池波少年を一人前の大人として、もてなしてくれるのです。
すぐに、おとなの真似をしたがって、「小鍋だて」をやりたがる池波さんに、老人は、
「こんなもの、若い人がするものじゃあない」と強いてすすめようとはしなかった。
《ところが、四十前後になると、私は冬の夜の小鍋だてが、何よりたのしみになってきた。
五十をこえたいまでは、あのころの三井さんのたのしみが、ほんとうにわかるおもいがしている》
池波さんは、自分で考案した、さまざまな食材を「小鍋だて」にして紹介する。
いや、読んでいるだけで、すぐにも「小鍋だて」を真似したくなってくるよ。
そして、さいごの一行。
《三井老人は深川が戦災を受けたときに亡くなったそうな》
UPしたイラストは池波さんが画いた三井老人と後ろ姿の三井夫人の図です。
これを書きながら、わくわく亭は、台所のどのあたりに小さい土鍋があったかなあ、と思い出そうとしていますよ。