片岡球子(5)「渓斎英泉」

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 片岡さんの『面構 浮世絵師三代歌川豊国・渓斎英泉』(1991)から、英泉の画像を紹介します。

 わくわく亭には「杉浦日向子の部屋」という書庫がありまして、今日『百日紅』(8)で池田善次郎を
とりあげたところです。そちらはマンガの主人公なのですが、実の人物像をこちらで解説したいと思います。

 池田善次郎では、だれのことか分かりません。渓斎英泉のことなのです。

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 善次郎は通称で、本名は池田義信といって、水野壱岐守(現在の館山市)1万5千石の藩士の家に生ま

れたが、両親が死んだ後、江戸藩邸を出て浪人となる。16歳のときらしい。

 絵師になろうとして、菊川英二のもとに寄食する。(マンガで北斎宅に居候するようなものです)

 英二は本業が造花屋だったそうで、絵師としては、いまいちだったらしい。

 英二の息子が美人画の名手といわれた菊川英山で、のちに英山の門人になってから英泉を名乗る。

 それは26歳のころからで、それまでの間に、葛飾北斎のもとにも寄食していたのではないか、との説があるらしい。

 そこを杉浦日向子さんが『百日紅』に画いたというわけ。

 『百日紅』の冒頭、時代を文化11年、善次郎23歳として登場させている。(文化11年は22歳の説もある)

 

 マンガ『百日紅』では、まったく無名の絵師「ぜんちゃん」となっているが、文化11年には、艶本

出版している。彼には腹違いの妹が3人もいて、つねに養育費をかせぐためアルバイトをいろいろやっていた。

 幼い頃から文才があり、絵師としてはまだ未熟だったが、金のために艶本を書き始めたのだ。

 文化11年『艶本恋の操』を出版される。文章も絵も彼一人で画いた。

  その作者名が千代田淫乱、絵師名が四渓淫乱斎というあやしいペンネーム。

 寄食していた菊川英山の家が四谷にあったので、「谷」に「渓」(たに)の字をあてたのだろう。


 北斎とは生涯親しくしたというか、門下ではなかったが、私淑していた。画風はよくにていた。

 北斎春画につかっていた隠号「紫色雁高」(ししきがんこう)をゆずられて「二世紫色雁高」を名乗

るほどに親しい関係があったようだ。

 歌麿や栄之の美人画は8頭身美人だが、英泉の美人画の女たちは5~6頭身で、猫背、極端な胴長で、現代人からみて、どうしても美人には思えない。

 それが、春本の女たちとして画かれると異様なエロティシズムをかもしだすのである。

 渓斎の「渓」の字を「淫」に読み替えて「みだら」淫斎(いんさい)と呼んで幕末の江戸美人画では
絶大な人気となった、とは美術書のテキストに書く決まり文句であるが、上述したように、すでに
22歳のエロ本アルバイト時代から、「淫乱斎」だったのである。

 そうした、複雑な前半生をすごしてきた英泉を、すでに美人画の大家となった時点で、「面構え」として描いたのが片岡さんのTOPの絵です。