大正ロマン

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 高畠華宵(たかばたけ かしょう)作品展の目録です。

 目録だから、本のような奥付はないし、定価表示もない。発行は朝日新聞社(1988)。

 作品展は高畠華宵の生誕100年を記念したもので、朝日新聞社主催で1988年1月に、東京渋谷の東急百貨店本店でひらかれた。

 展示に協力したのは弥生美術館であり、同館が所蔵する華宵の代表作が多数、この目録にカラーで紹介されているから、およそ120ページの目録は立派な華宵の画集であって、しかも一般書店には流通していない展示目録という性格から、貴重な「お宝」なのであります。

 わくわく亭は、この目録を昨日東京八重洲地下街古書店で買いました。2500円でした。

 買いたての、ほやほや!!

 生誕100年というのだから、華宵の誕生は1888年となる。生誕100年の記念作品展が開催されてから、すでに20年近くなるわけだ。まこと、光陰は矢のごとし。

 そして、「大正ロマン」と言い習わしているが、その大正も1912~1926年の期間であるから、
いまから、およそ80~95年の昔になりました。


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 上の絵は「真澄の青空」というタイトルをつけた便箋帳の表紙原画です。

 ここに描かれた美少女は、どうやら特定のモデルがあったようだ。華宵が彼女を描いた作品は、おそらく数えきれないくらいあっただろう。

 目録の中に、華宵と親しくしていた渋谷さんという女性の談話が載せてあって、そこで華宵が使ったモデルは、彼の兄の娘、つまりは彼の姪である高畠倭文(しず)だったと明かしている。
 また、談話にならべて、倭文女の写真が掲載されており、一目でまちがいなく、モデルは倭文女だと納得しました。

 この「真澄の青空」の美少女もそうですが、瞳と視線のゆくへに特徴があります。

 しっかりと対象を見つめようとしないで、ややぼんやりと、かなたへ視線を送っている。
 おそらく、少女の瞳は、じっさいにはなにも見てはいないのです。その茫洋とした視線は、たとえば「流し目」の魅力をうたわれた、美貌の映画俳優長谷川一夫の表情を連想させます。

 現実の対象物を見ることなく、現実にないものに視線を送るからこそ、甘い夢を見るような表情が生まれているのです。華宵が描く美少女の「ロマンチック」の秘密はここにあるのです。


 あっさり、この目録の表紙を紹介して、それでおしまいにしようとおもっていたのだが、高畠華宵
いまも熱烈なファンはいても一般的には、名前すら忘れられているかも知れないと思い直し、すこしだけ書き足すことにした。



 「大正ロマン」を代表する人気画家としては、竹久夢二がいる。

 華宵と夢二とは、ほぼ同時代を生きている。

 夢二の生年は1884年で、華宵より4年早く、没年は1934年で、華宵の1966年とくらべると28年も短い一生だったが、活躍した時代はほぼ同時代だったといえる。

 夢二はセンチメンタルで、内向的な作風。これに対して華宵はファッショナブルで妖艶な作風で、
人気を2分していた。



 華宵は四国宇和島の出身で、京都で日本画を学んだあと上京し、22歳で広告絵を描き始める。

 23歳(明治44年)津村順天堂の商品「中将湯」の広告絵で注目を浴び、その後、講談社の雑誌の表紙、挿絵、装丁画を描くようになって絶大な人気を博してゆく。

 大正期に入って、自由、開放的な風俗、気風が都会から地方へと、大量印刷される雑誌などの出版美術にのってひろがっていく時代に、華宵の絵は圧倒的な支持を得た。


 やわらかく流れるような曲線で描く華宵の美少年、美少女。

 透明感のある新鮮なタッチと、妖艶な人物描写。

 日本の抒情的文化と西洋文化がまじりあった「大正ロマン」とよばれたスタイル。


 そこに描かれた美少女たちのファッションは洋服も着物も「華宵好み」といわれて、日本中の女性たちの最上のお手本になった。

 「華宵好み」のファッションで身をつつみ、銀座を歩くことは、彼女たちにとって夢のようなあこがれだった。

 昭和3年に歌謡曲「銀座行進曲」が発売される。その中の歌詞に、「華宵好み」が唱われるほどの人気
だった。

            ♪国貞描くの乙女もゆけば

             華宵好みの君もゆく♪

            ♪宵の銀座のオルゴール

 
 華宵は、少年少女雑誌、大衆婦人雑誌など出版美術界に、まさに君臨していた。文字通り、一世を風靡していたのです。


 ページを替えて、華宵の美少女の絵を何枚かUPさせてもらうとしよう。