百合子姫の高笑い
物部守屋(もののべのもりや)が殺されたのは用命天皇2(587)年7月のことです。
そこへ至る歴史的過程をかいつまんで述べます。
物部氏は有力な軍事氏族で、対立する蘇我(そが)氏と権力、勢力をはげしく争っていました。
蘇我氏は仏教尊崇派であり、天皇もまた仏教を信仰しました。
物部守屋は、最大の軍事力を誇る排仏派で、敏達天皇には圧力をかけると、仏法禁止の詔をさせ、寺を焼き、仏塔を破壊し、仏像を海に捨てさせる暴挙を行った、と『日本書紀』は語ります。
敏達天皇が崩御しますと、蘇我派は用命天皇を擁立して即位に成功する。すると守屋は敏達天皇の異母弟と結んで、政権転覆を目論んだといわれます。
4月に用命天皇も崩御したから、両派の抗争は殺し合いに発展して、ついに7月蘇我派は皇子、諸豪族の軍兵を率いて、河内の国渋川にあった守屋の館(やかた)を攻めたのでした。
蘇我派には、のちの聖徳太子である廐戸皇子(うまやどのみこ)も連合しています。
しかし、守屋は軍事を専門とした氏族です。一族の強兵を砦の中に集めて、寄せ手の蘇我連合軍をものともしない。
守屋は武人ですから、みずから朴(ほう)の木に登り、弓矢を雨の如く射込んで、攻め寄せる兵を射倒すのでした。
そのとき、蘇我派の舎人(とねり)である迹見が射た矢が、木の上の守屋を射殺しました。
一族のおさである守屋を殺すと、勢いづいた蘇我の兵は守屋の子らを殺し、物部の軍は逃散してしまった。
この守屋殺害によって、その後、蘇我氏の権勢は頂点にまで昇りつめてゆくのです。
さて、ここに小池の百合子姫という姫君がおわしました。
小池の姫もまた、守屋(もりや)との抗争に明け暮れていました。
そもそも姫は元の大臣(おおおみ)である安倍の一族に属し、宮廷では守屋の直接の長の役についておわしましたが、軍隊を掌握する守屋は横暴で、姫が立案した改革案に、ことごとく異をとなえました。
小池の姫は、守屋をその役から降ろすか、それが叶わねば、自らが引退するという決意をもって、
安倍の大臣(おおおみ)に進言しました。
ところが宮廷では、守屋の権勢を恐れて、世に言う「喧嘩両成敗」の理屈から、小池の姫を宮廷から追放となし、守屋をただの隠居処分としたのでありました。
これは、はなはだ片手落ちの処分であると、小池の百合子姫は宮廷を恨みましたが、宮廷を去るにあったては、
「守屋とは、これからも、いいお友達でいましょうね、と笑って握手しましたわ」
と、見え透いたウソの笑顔を、香水のようにふりまいたのです。
姫の心中やいかに。守屋をナマスに切り刻んでも、なお飽きたらぬほどの恨みをのんでいたことは明白でした。
ところがその後、守屋は、その腹心であった山田洋行の軍事物資調達にからむ不正が暴かれたために、いまや風前のともしびの状態に陥ったのであります。
宮中に引きずり出され、百官によるきびしい糾弾をうけることとなった。
いまや、守屋と百合子姫の勝者と敗者の立場は完全に逆転したかにみえる。
そうして、
今宵も、百合子姫の館では、シェリー酒を口にふくみながら、
「守屋め、おもいしったか。がはははは」という姫の高笑いがきこえているのです。
あまりの高笑いに、館のガラス窓ががたがたと音を立ててふるえるばかりであります。
折も折、小池の百合子姫は書を出しました。
その書名が、なんと『女子の本懐』(*)と申します。
守屋や、あわれ、嗚呼。
*文春新書『女子の本懐 市ヶ谷の55日』(文藝春秋社)
そこへ至る歴史的過程をかいつまんで述べます。
物部氏は有力な軍事氏族で、対立する蘇我(そが)氏と権力、勢力をはげしく争っていました。
蘇我氏は仏教尊崇派であり、天皇もまた仏教を信仰しました。
物部守屋は、最大の軍事力を誇る排仏派で、敏達天皇には圧力をかけると、仏法禁止の詔をさせ、寺を焼き、仏塔を破壊し、仏像を海に捨てさせる暴挙を行った、と『日本書紀』は語ります。
敏達天皇が崩御しますと、蘇我派は用命天皇を擁立して即位に成功する。すると守屋は敏達天皇の異母弟と結んで、政権転覆を目論んだといわれます。
4月に用命天皇も崩御したから、両派の抗争は殺し合いに発展して、ついに7月蘇我派は皇子、諸豪族の軍兵を率いて、河内の国渋川にあった守屋の館(やかた)を攻めたのでした。
蘇我派には、のちの聖徳太子である廐戸皇子(うまやどのみこ)も連合しています。
しかし、守屋は軍事を専門とした氏族です。一族の強兵を砦の中に集めて、寄せ手の蘇我連合軍をものともしない。
守屋は武人ですから、みずから朴(ほう)の木に登り、弓矢を雨の如く射込んで、攻め寄せる兵を射倒すのでした。
そのとき、蘇我派の舎人(とねり)である迹見が射た矢が、木の上の守屋を射殺しました。
一族のおさである守屋を殺すと、勢いづいた蘇我の兵は守屋の子らを殺し、物部の軍は逃散してしまった。
この守屋殺害によって、その後、蘇我氏の権勢は頂点にまで昇りつめてゆくのです。
さて、ここに小池の百合子姫という姫君がおわしました。
小池の姫もまた、守屋(もりや)との抗争に明け暮れていました。
そもそも姫は元の大臣(おおおみ)である安倍の一族に属し、宮廷では守屋の直接の長の役についておわしましたが、軍隊を掌握する守屋は横暴で、姫が立案した改革案に、ことごとく異をとなえました。
小池の姫は、守屋をその役から降ろすか、それが叶わねば、自らが引退するという決意をもって、
安倍の大臣(おおおみ)に進言しました。
ところが宮廷では、守屋の権勢を恐れて、世に言う「喧嘩両成敗」の理屈から、小池の姫を宮廷から追放となし、守屋をただの隠居処分としたのでありました。
これは、はなはだ片手落ちの処分であると、小池の百合子姫は宮廷を恨みましたが、宮廷を去るにあったては、
「守屋とは、これからも、いいお友達でいましょうね、と笑って握手しましたわ」
と、見え透いたウソの笑顔を、香水のようにふりまいたのです。
姫の心中やいかに。守屋をナマスに切り刻んでも、なお飽きたらぬほどの恨みをのんでいたことは明白でした。
ところがその後、守屋は、その腹心であった山田洋行の軍事物資調達にからむ不正が暴かれたために、いまや風前のともしびの状態に陥ったのであります。
宮中に引きずり出され、百官によるきびしい糾弾をうけることとなった。
いまや、守屋と百合子姫の勝者と敗者の立場は完全に逆転したかにみえる。
そうして、
今宵も、百合子姫の館では、シェリー酒を口にふくみながら、
「守屋め、おもいしったか。がはははは」という姫の高笑いがきこえているのです。
あまりの高笑いに、館のガラス窓ががたがたと音を立ててふるえるばかりであります。
折も折、小池の百合子姫は書を出しました。
その書名が、なんと『女子の本懐』(*)と申します。
守屋や、あわれ、嗚呼。
*文春新書『女子の本懐 市ヶ谷の55日』(文藝春秋社)