(3)碁会所の藤沢周平さん
7月26日のブログ「ご近所の藤沢周平さん」が好評だった(わくわく亭の勝手な思いこみ?)ので、
僕はもうすこし、ご近所にお住まいだった藤沢さんについて書くことにしました。
1番上の写真は平成9年4月文芸春秋臨時増刊号『藤沢周平のすべて』に掲載されたもので、大泉学園駅前の碁会所で撮影されています。
それは僕も知っている碁会所なので、10年たった最近の写真を撮って藤沢周平ファンにお見せしようと考えました。
2番目の写真は碁会所が入っているビルの外観で、碁会所はビルの3階にあります。
場所は西武線大泉学園駅北口から歩いて、最初の信号の角です。地下にはカラオケ店、1階が不動産屋、2階が消費者金融業という雑居ビルの3階が「大泉囲碁将棋センター」です。
藤沢さんが時々碁を打ちに立ち寄ったのがここで、上の文藝春秋の撮影場所ともなったのです。
3番目の写真は碁会所の室内で、藤沢さんが撮影されたと同じアングルをもとめながら撮った写真です。
2,3番目の写真を撮ってきたのは、実は僕ではありません。わくわく亭の女房が撮ってきてくれたものです。
僕は京橋の仕事場に出かけるので、女房に頼んであったのですが、練馬は朝から気温が上がり、日中は35度にもなった日で、「写真はご自分で、土曜か日曜日に撮ってきたらいいでしょ」とにべもなく断られていたもので、諦めていたところが、ちゃんと撮ってきてくれたというから、感謝、多謝、謝々、というシロモノです。
10年前の写真と比べると椅子もテーブルも同じもののようですが、柱に掛かった四角い時計とコーヒー、甘酒の貼り紙が見当たりません。
それらは別な場所に移されていました。
10年前のコーヒーと甘酒は200円となっていますが、いまは250円です。いずれもお店で自家製のもの。(10年で50円の値上げは良心的じゃないかな)
ここでトピックが1つあります。
わくわく亭の女房が碁会所を訪ねたとき、丁度テレビ局のスタッフが来ていて、テレビ撮影の打ち合わせをしていたそうです。
スカイパーフェクTVの『時代劇専門チャンネル』で「ドラマで楽しむ藤沢周平の世界」という番組が放送されていて、その特別編を制作中なんだそうです。
特別編は関係者による座談会と、藤沢さんの故郷であり、創作上の「海坂藩」のモデルとなった山形・庄内地方を写真家の立木義浩さんがたずねる映像と、さいごに藤沢さんが20年を暮らした大泉学園で、散歩の途中におとずれた図書館、喫茶店そして碁会所などをカメラで紹介するという構成からできるらしい。
そこへ、わが女房が10年前の文藝春秋増刊号を手にしてやってきて、藤沢さんにゆかりのある碁会所内部の写真を撮りたいといったものだから、お店の人は、てっきりTV番組の関係者かなにかだと思ったらしい。
受付の女性(実は経営者のお孫さん)は、
「あの、あなたは藤沢さんのお嬢さんですか?」と訊いたのだそうです。
(藤沢さんの一人娘の展子さんは1963年生まれですから、まだ44歳。わが女房とは、歳が違いすぎますぞ)
ついでに、藤沢さんの東京の住まいについて書いておくとしよう
1928年、26裁で肺結核をかかえて上京。東村山の病院で手術、入院生活。
1932年、30歳で退院、練馬区貫井町に間借り。
1959年、32歳で鶴岡の三浦悦子さんと結婚、貫井町のアパート住まい。
1963年、36歳で長女展子(のぶこ)さんの誕生。清瀬市上清戸に間借り。
10月、妻悦子さんが病死。
このころ、藤沢さんの人生は暗いものだったろう。
1964年、清瀬市中里、都営団地に移転。
1969年、42歳。江戸川区小岩の高澤和子さんと再婚する。
1970年 43歳。東久留米市金山町に移転。
一家は1976年11月まで、この住所に住まうのだが、僕わくわく亭はおなじころ
東久留米市石神に家を買って住んだのであります。
金山町と石神は歩いて数分の距離。どこかで、ときどきすれ違ったかもね。
1973年、46歳。第69回直木賞受賞。
1976年、49歳。練馬区大泉学園町に移転する。
わくわく亭はその3年後の1979年に大泉学園町に移転してきました。
藤沢周平さんの趣味は、もっぱら散歩。駅前の書店をのぞき、喫茶店をまわり、碁会所で碁を打ったり、ときにパチンコをたのしむくらい。
ほかの流行作家たちのように、銀座や赤坂のクラブで酒を飲み、タクシーでの朝帰り、ゴルフをやり、ひんぱんに海外旅行をする、などといったお楽しみとは、およそかけはなれた日常だった。
僕は、藤沢さんが暮らしたことのある、上記の東村山(そこにある結核療養所を前身とする病院には
僕はいまもお世話になっている)、清瀬市中里と清瀬市上清戸(そこには現在、僕の実弟が住んでいるし)、東久留米、そして大泉学園町と、どこにもご縁があったわけで、住所表記をみるだけで身近なものを感じてしまう。
やはり、ご近所の藤沢周平さん、ってことになるんだよ。
僕はもうすこし、ご近所にお住まいだった藤沢さんについて書くことにしました。
1番上の写真は平成9年4月文芸春秋臨時増刊号『藤沢周平のすべて』に掲載されたもので、大泉学園駅前の碁会所で撮影されています。
それは僕も知っている碁会所なので、10年たった最近の写真を撮って藤沢周平ファンにお見せしようと考えました。
2番目の写真は碁会所が入っているビルの外観で、碁会所はビルの3階にあります。
場所は西武線大泉学園駅北口から歩いて、最初の信号の角です。地下にはカラオケ店、1階が不動産屋、2階が消費者金融業という雑居ビルの3階が「大泉囲碁将棋センター」です。
藤沢さんが時々碁を打ちに立ち寄ったのがここで、上の文藝春秋の撮影場所ともなったのです。
3番目の写真は碁会所の室内で、藤沢さんが撮影されたと同じアングルをもとめながら撮った写真です。
2,3番目の写真を撮ってきたのは、実は僕ではありません。わくわく亭の女房が撮ってきてくれたものです。
僕は京橋の仕事場に出かけるので、女房に頼んであったのですが、練馬は朝から気温が上がり、日中は35度にもなった日で、「写真はご自分で、土曜か日曜日に撮ってきたらいいでしょ」とにべもなく断られていたもので、諦めていたところが、ちゃんと撮ってきてくれたというから、感謝、多謝、謝々、というシロモノです。
10年前の写真と比べると椅子もテーブルも同じもののようですが、柱に掛かった四角い時計とコーヒー、甘酒の貼り紙が見当たりません。
それらは別な場所に移されていました。
10年前のコーヒーと甘酒は200円となっていますが、いまは250円です。いずれもお店で自家製のもの。(10年で50円の値上げは良心的じゃないかな)
ここでトピックが1つあります。
わくわく亭の女房が碁会所を訪ねたとき、丁度テレビ局のスタッフが来ていて、テレビ撮影の打ち合わせをしていたそうです。
スカイパーフェクTVの『時代劇専門チャンネル』で「ドラマで楽しむ藤沢周平の世界」という番組が放送されていて、その特別編を制作中なんだそうです。
特別編は関係者による座談会と、藤沢さんの故郷であり、創作上の「海坂藩」のモデルとなった山形・庄内地方を写真家の立木義浩さんがたずねる映像と、さいごに藤沢さんが20年を暮らした大泉学園で、散歩の途中におとずれた図書館、喫茶店そして碁会所などをカメラで紹介するという構成からできるらしい。
そこへ、わが女房が10年前の文藝春秋増刊号を手にしてやってきて、藤沢さんにゆかりのある碁会所内部の写真を撮りたいといったものだから、お店の人は、てっきりTV番組の関係者かなにかだと思ったらしい。
受付の女性(実は経営者のお孫さん)は、
「あの、あなたは藤沢さんのお嬢さんですか?」と訊いたのだそうです。
(藤沢さんの一人娘の展子さんは1963年生まれですから、まだ44歳。わが女房とは、歳が違いすぎますぞ)
ついでに、藤沢さんの東京の住まいについて書いておくとしよう
1928年、26裁で肺結核をかかえて上京。東村山の病院で手術、入院生活。
1932年、30歳で退院、練馬区貫井町に間借り。
1959年、32歳で鶴岡の三浦悦子さんと結婚、貫井町のアパート住まい。
1963年、36歳で長女展子(のぶこ)さんの誕生。清瀬市上清戸に間借り。
10月、妻悦子さんが病死。
このころ、藤沢さんの人生は暗いものだったろう。
1964年、清瀬市中里、都営団地に移転。
1969年、42歳。江戸川区小岩の高澤和子さんと再婚する。
1970年 43歳。東久留米市金山町に移転。
一家は1976年11月まで、この住所に住まうのだが、僕わくわく亭はおなじころ
東久留米市石神に家を買って住んだのであります。
金山町と石神は歩いて数分の距離。どこかで、ときどきすれ違ったかもね。
1973年、46歳。第69回直木賞受賞。
1976年、49歳。練馬区大泉学園町に移転する。
わくわく亭はその3年後の1979年に大泉学園町に移転してきました。
藤沢周平さんの趣味は、もっぱら散歩。駅前の書店をのぞき、喫茶店をまわり、碁会所で碁を打ったり、ときにパチンコをたのしむくらい。
ほかの流行作家たちのように、銀座や赤坂のクラブで酒を飲み、タクシーでの朝帰り、ゴルフをやり、ひんぱんに海外旅行をする、などといったお楽しみとは、およそかけはなれた日常だった。
僕は、藤沢さんが暮らしたことのある、上記の東村山(そこにある結核療養所を前身とする病院には
僕はいまもお世話になっている)、清瀬市中里と清瀬市上清戸(そこには現在、僕の実弟が住んでいるし)、東久留米、そして大泉学園町と、どこにもご縁があったわけで、住所表記をみるだけで身近なものを感じてしまう。
やはり、ご近所の藤沢周平さん、ってことになるんだよ。