(2)ご近所の藤沢周平さん

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 写真は自宅二階の書斎で執筆中の藤沢周平さんです。文藝春秋の平成9年4月臨時増刊号「藤沢周平のすべて」巻頭グラビアのものです。
 
 藤沢周平さんが逝って10年ですが、生前の人気は衰えるどころか、死後ますます人気、評価ともに高まるばかりです。

 練馬の大泉学園にあった藤沢さんの家が、僕わくわく亭の家から歩いて3分ほどの、ご近所だったことは、6月7日のブログに書いた。家はわが家と同じくらいの、ごく一般的な建て売りらしい住宅。

 二階の仕事場は、おそらく8畳の和室でしょう。
 わくわく亭が“書斎”と称しているわが家の和室を撮ったなら、こんなかんじになることでしょう。

 司馬遼太郎池波正太郎さんたちと全国の時代小説ファンを2分、3分していた人気作家の書斎、仕事場の光景とは思えないほど、質素で殺風景な部屋じゃないですか。
 かつて、月刊文芸誌の巻頭グラビアを飾るのは、有名作家たちの風貌を伝えるポートレートであり、場所は豪奢で威厳のある書斎ときまっていた。
 時代小説家は上質の和服を着て、紫檀か黒檀製の重厚な書棚にかこまれて、書画、骨董などのいわくありげな美術品がそばに写る、といったのが定番で、読者たちは、さすが大家、人気作家にふさわしい書斎であり邸宅だと、感じ入ったものだった。
 駆け出しの作家たちもまた、売れっ子になったら、そのような書斎におさまった“作家”然とした自分の肖像を、月刊誌のグラビアに載せたいものと憬れていたことだろう。

 だから、藤沢周平さんの大泉学園の二階に通された編集者や記者たちは、
「二階へ上がって、ちょっとびっくりしました。時代小説作家の書斎というイメージからは、あまりにかけ離れた殺風景なものでした」と回想したり、『人気作家の現場検証』という企画でおとずれたイラストレーターはとまどって、「時代物作家という感じが、まるでありませんなあ」とぼやいたりしたそうです。

 はじめて、上の写真を見たら藤沢周平ファンならずとも、おどろくことでしょう。
 しかし、やがて、いかにも藤沢周平さんらしい仕事場だ、と納得するはずです。

 こつこつと、たゆみなく資料を読み、下調べをして、江戸の庶民の生活を書いたり、東北小藩の身分の低い武士の生活と過酷な運命に思いをはせて、遠いまなざしを送る周平さんの仕事場らしい。
 結核をわずらったことのある周平さんはタバコを吸わなかったから、仕事場にタバコの匂いがない。
 窓側にある白い機械はヒーターだろう。
 左の円筒のゴミ入れは、わが家にもそっくり同じ形のものがあって、わが家のは赤色だ。
 右手奥に掛かった時計は電池式のもので、値段だってきわめて一般的なものだろう。

 使っている小机について、周平さんは随筆にこう書いている。
 《つい最近までパキンパキンと脚を折るどこの家にもあるテーブルを使っていたのを、弟が見かねてくれたものだが、これもありきたりの机である。
 座布団は母親が敬老会のときに東久留米市からもらったおさがり、碁盤も二つ折りの安ものといったおそまつさだ》

 結局、周平さんの生活は、食品経済社という業界紙でサラリーマンをしていたころからの、質素な暮らし方が、人気作家になってからも、変わらなかったということだろう。
 そして、物質的に恵まれた生活スタイルには、さいごまで馴染まず、質朴な庶民スタイルで通したということだろう。

 同じ『書斎のことなど』という随筆に、そのことを周平さんは書いている。

 《なぜこうなのかということを、理由をはぶいて結論だけ言えば、私は所有する物は少なければすくないほどいいと考えているのである。物をふやさず、むしろすこしずつ減らし、生きている痕跡をだんだんに消しながら、やがてふっと消えるように生涯を終ることが出来たらしあわせだろうと時どき夢想する》

 物欲の少ない人だったとも、禁欲的な傾向もあった人だったろうともいえる。それも作家になる以前に結核にかかり、療養所生活をした経験から、自分の生命に、限りのあることを常に意識する生き方が身についたのではないか。

 初期の藤沢作品の暗さはそこから来ただろう。そして、暗さを通り抜けたあとにおとずれた、限りある生命をひたむきに生きる庶民や軽輩の武士たちを書いた作品に、底光りする生命感が宿ってきてから、
藤沢作品は、まちがいなくわれわれ庶民にとっての名作ぞろいとなった。

 上の写真の2枚目は、わくわく亭に来る北園に店を持つお米屋さん「よねや」のカレンダーです。
わが家の台所の壁にかかっているもの。
 藤沢周平さんの仕事場の写真をもう一度見て欲しい。正面の窓の左に、白いカレンダーが見えるでしょう。虫眼鏡で拡大するとよくわかるのだが、「よねや」のカレンダーですよ。

 ご近所の藤沢周平さんちには、わくわく亭にも来ているお米屋さんが、ご用聞きに廻っていたのです。
 
 そのことが、話したくて、今日はこのブログを書きました。