ウォークマンから

イメージ 1

 
 ふと、ソニーウォークマンがいつ発売になったのか知りたくなった。

 初代ウォークマンが発売されたのが1979年のことになるらしい。今から28年前だ。

 なぜ、僕がそれを気にしたかというと、ウォークマンが若い世代のライフスタイルを一変させたわけだが、スタイルばかりか彼らの世界認識まで変えたのではないか、と近頃考えるからだ。

 両の耳にイヤホンを差し込んで音楽を聴きながら、歩き、乗り物に乗り、雑誌やマンガを開き、ケータイ画面をのぞき、物を食べ、山を登り、川を下り、恋人とともにいることができる。
 音楽なしでは充実した生活ができないと信じる人々にとって、どこでも、いつでも自分の選んだ音楽に浸れて、包まれていられることを可能にしたウォークマンは、画期的な大発明だったにちがいない。

 このわくわく亭でさえ、ソニー製を持って、散歩をするときに、モーツアルトの「プラハ」を聴きながら、サザンオールスターズの「真夏の果実」を聴きながら歩き、すこぶるご満悦だったこともあった。

 その時にも感じたことだが、両の耳が占領され、好きな楽曲が脳を占拠していると、意識が内部に向かって、外界が空しくなるようだ。
 そうでなくてさえ、外部より自分の内面に関心が向かいやすい若者たちには、内部志向を増幅するツールになったと思われる。
 いつも、どこでもウォークマンとともにいると、自分の外部世界は色がさめ、騒音や人声はかすかになって、存在感は希薄になるだろう。
 そのとき、さらに眼をとじてしまえば、世界はもう存在しないも同然。
 自分の内面に音楽が流れ込んだ風景は、この上なく純粋に感じられる。それに比べて外界は不純で
うさんくささに満ちている。そんなもの、なくてもいい。
 ウォークマンで内面に没頭すれば、自分が好きでもない世界は消滅したようなものだ。

 そうした感覚は、自分が外界に身を置いていても、外界は存在していないようにみなす習慣をやしなうだろう。
 眼を閉じれば意識は外部の存在を認識しないから、外部は存在しない。といってしまえば、古めかしい観念論や唯心論みたいになってしまうが。

 つまり、電車の中で弁当を食べ、床に座りこんでマックシェーキを食べ、鏡をのぞいていつまでも化粧をして、周囲を気にしない若者たちの風俗は、これすなわち、現代の観念的、あるいは唯心的存在論の証明なのではないだろうか。
 そして、それは1979年のウォークマン発売からはじまった文化状況の変異なのだと、いえないだろうか。

 ついでに、マクドナルドが銀座三越一階の通り側に、日本進出1号店を開いたのが、1971年7月だったらしい。
 若者たちがハンバーガーを食べながら銀座を歩く風景が、当時ニュースになった。屋外でものを食べながら歩くと言うことは、下品なこととしてきた日本の道徳的美意識がこわれはじめた、ひとつのきっかけになっただろう。

 あのころ、僕わくわく亭もまた、はなしのタネに地下鉄で銀座まで行って、三越前ハンバーガーを買った。それを、どこで食べたのか、いま思い出せないのであります。
 
 気がつけば、あの日から36年も過ぎたのだ。
 僕はそのハンバーガーを、どこで食べたのだろう。