艶笑小咄(続)

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 江戸安永2年に発行された小咄本『今歳花時』(ことしはなし)から、いかにも庶民がこしらえたらしい艶笑小咄を2篇紹介しましょう。

 一つ目は『寝ぼけ』という話。

 世の中には、夜中寝惚けて、変な行動をするものがいます。トイレにいくつもりで起きて、まちがって押し入れの襖をあけたりするもの。夜中家の中をうろうろ徘徊するもの。屋外に彷徨い出てしまうものまでいる。子供の寝惚けなら、まだかわいいけれど、大の大人が怪しい行動をすると、事件にもなりますよ。
 この話では、寝惚けたふりをして、よからぬ振る舞いに及ぶという悪いやつと、相手の策略にころっとひっかかるお人好しの亭主が主人公です。


       《寝ぼけ》

   友達のところへ泊まり、真夜中目がさめて見れば、亭主がよく寝入っているから、そっと起きて、
  女房の上へ乗り、半分いれるところを、亭主目をさまし、大きに腹を立て、すむのすまぬのと
  やかましし。

  客「コレハ、もっともじゃ。重々あやまり。ジャガ、これはとんと、おれが夢であった。
    寝ぼけたのじゃから、堪忍しや」
   とだんだんわびごと。

  亭主「それも、あるまいことでもない」  
   と納得し、双方おさまって寝たが、間男(まおとこ)、さるにてもあまり残念と、
  また起きて這いかかり、今度はなんなく入れすまし、気がいく最中、
  鼻息に驚いて、亭主目をさまし、
   「コレコレ、起きやれ、目をさましや、目をさましや」


   これだけお人好しだと、事件が起きたって、だれひとり傷つくものは出ないから、
  さすが太平の大江戸だなってところ。


  おつぎの一編もわくわく亭が好きなものです。
  
  『女郎』というタイトルですが、もっといい題がついたであろうに、と思うくらい出来のいい
  小咄です。
  吉原ではなくて、すこし格の下がる遊里にやってきたのが、無骨なお武家さん。
  遊び慣れてないらしく、場所に不似合いな余興をやってみせたりするものだから、
  (お武家さんは短い謡を1,2番うたったのだが、謡いとはお能の曲なわけで、
  もし「高砂」ならば婚礼でうたうものだから、場違いもいいところ)陰で女郎や、
  女郎屋の若い者たちに笑いものにされている。
   
   この話の面白いところは、大田南畝山東京伝たちが書いた黄表紙とか洒落本で、
  遊里に不慣れな田舎出の侍をからかったように、侍が色里にきてまでも、格式ばった武家言葉を
  つかって「野暮」をさらけ出すのを笑っているところです。



       《女郎》(じょろう)

   堅いお侍が遊びにお越しなされ、よほど酒が過ぎたとみえて、祝儀の小謡い1,2番うたわれ 
  たれば、女郎も若い者もあきれた顔で、座を持ちかねて、
  「サア、お床入り」と勧めたときに、
  「しからば、いづれも」と挨拶して寝間にはいったが、
  「あんまりおかしい客じゃ。あれではむつごと(床の中での男女の会話のこと)が面白かろ」
  と皆聞き耳でうかがいおれば、
  段々せめよせたときに、
   女郎が、「アア、いきやす、死にんす、死にんす」といえば、
   お侍、「身も、相果てるようだ」


  「身も」とは武家言葉で「自分も」ということ。「自分も、死んでしまいそうだ」というところを、
  「相果てるようだ」と最後まで、無粋な武家言葉を使う、野暮天ぶり。
  
  笑っちゃうよね。