渋江道順って誰だ?

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 このところ『慊堂日暦』を読んでいるのです。

 江戸後期の儒者、松崎慊堂先生の日記です。東洋文庫平凡社)から6巻として出ているもの。



 その第3巻、天保3年3月6日の記事に注目しました。

 《晴れて温かい。門人の野本が来て、ともに語る。狩谷棭斎翁は渋江道順、伊沢磐安を伴って来る。
 陰山量平は志村宗安を伴って来る。村山もまた来る。日くれてみな去る……》

 とても簡単な内容です。
 
 狩谷棭斎は町人出の有名な考証学者で慊堂先生の親友です。彼がつれてきた2人、渋江道順と伊沢磐安の名前が気になったというわけです。

 森鴎外の2つの史伝小説、『渋江抽斎』と『伊沢蘭軒』がすぐに思い浮かぶのです。

 2人は誰だろうか?

 僕は手もとにある『江戸文人辞典』でしらべてみました。

 伊沢磐安についてはすぐに判明。別の号を柏軒(はくけん)といい、伊沢蘭軒の第三子で、伊沢榛軒(しんけん)の弟。鴎外の上の両著には出てくる。(以前読んだとしても、磐安が柏軒だなんて、憶えてなんかいないよ)

 では、渋江道順は誰か?

 その名前では辞典にはみつからない。では、渋江抽斎をひいてみる。抽斎の別号として「道純」はある。しかし、「道順」はない。字は違うが同一人物か?でも証拠がない。

 渋江道順は、おそらく抽斎周辺の人物であることに間違いはないだろうが、誰なのか。じれったい。それをしらべるためだけに、鴎外の2著をくまなく再読する元気はない。

 『慊堂日暦』の3巻には、その後も、磐安と道順の名がいくども現れる。

 3巻を読み終えたところで、今朝、ふと以前読んだ杉浦明平さんの『小説渡辺崋山』(これも長い小説で、朝日新聞社の文庫で6巻ある)のページをくっていたところ、それもたまたま3巻なのだが、鴎外の『伊沢蘭軒』第199章に、伊沢柏軒が狩谷棭斎につれられて松崎慊堂の別荘「石経山房」をはじめておとずれた日の、柏軒の日記がひかれていることを知ったのです。

 その日付こそが、まさに、天保3年3月6日ではないですか。

 僕はすぐさま鴎外全集の『伊沢蘭軒』をひっぱり出して、第199章をひらいてみました。

 鴎外の文章はこうです。


 《天保3年は蘭軒歿後第3年である。3月6日に柏軒が始て松崎慊堂を見た。
 わたくし(筆者の鴎外自身)は上に文政辛巳の條に、榛軒が慊堂、棭斎に学び、柏軒が棭斎に
 学んだことを言った。今柏軒は其師棭斎に従って、渋江抽斎と共に兄の師慊堂を羽澤に訪うた
 のである。わたくしは此に柏軒の日記を抄出する……》


 柏軒の日記を引用するまでもないでしょう。渋江道順は道純で、渋江抽斎その人だったのです。

 松崎慊堂先生は日記に書くとき、「純」に「順」の字をあてて書いたということです。

 それに僕は惑わされたのです。

 たったこれだけのことですが、そして、渋江道順が道純だと知らなかったのは、この僕だけだったのでしょうが、不明なことが、ちょっとしたきっかけで判明したときの、なんともいえない喜びを得たのでした。これもまた、読書の喜びの一つでしょう。



  上掲の写真は、江戸天明期に山東京伝が主催した「手拭合」に出品された「蛇の目傘」です。