西原理恵子『上京ものがたり』

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 ある書評専門サイトのために、西原理恵子(さいばらりえこ)さんの『上京ものがたり』(小学館)の書評を書くつもりでいたのですが、いまだサイトの管理者との約束を果たしていません。ごめんなさい。

 その書評サイトが要求している書評とは、しかるべき文筆家による本格的な書評であって、一冊の本につき2000文字程度の内容の濃いものでなければならず、5,6行で書いた「おもしろかった」などといった感想文ではだめなのでした。小説について2000文字の書評は苦になりませんが、マンガについてとなると、その字数は勝手が違い、なかなか手が着かないのでした。

 西原さんといえば、いま過激なギャグマンガで売れに売れているマンガ家です。正直に白状しますと、『上京ものがたり』が「手塚治虫文化賞」の中の短編賞受賞というニュースを見るまで、彼女のマンガは雑誌などでチラッと見た程度で、単行本でキチンと読んだものはひとつもありませんでした。

 これまでどんな作品を画いてきた作家なのか、いま年齢がいくつで、結婚しているのか、子供はあるのか。そうした予備知識はまったくなしで、受賞作だという理由で本を買いました。
 大きな書店であり、二階をコミックス専門フロアーにしてマンガ本の在庫は豊富に揃えていましたが、『上京ものがたり』の在庫はありませんでした。注文して10日ほど後に、手にすることができました。
 西原さんの本の中では、地味な存在なのですね。発行から5ヶ月たっているのに、僕が買った本は初版第1刷。ということは発行部数も控えめだったということです。

 その理由は明らかです。彼女のマンガが“売り”にしている過激ギャグの作品ではなく、田舎から単身あこがれの東京に出てきてから、いろいろのバイトで苦労しながら、ついにマンガを画く仕事につくまでの自伝的な“マジ”な作風だからです。
 彼女の大半のファンは過激ギャグを期待しているのであって、そんな“マジ”な作風のものは買わないということです。
 ところが、たいていの「文化賞」というものは“ギャグ”っぽいものに対してでなく、“マジ”な作風のものに与えられるものです。文化は“マジ”でなければならないからですね。

 『上京ものがたり』は帯につけたキャッチコピーが、そのねらいを語っています。「東京で一人暮らしをしている全ての女の子たちに読んでもらいたい……絵本のようなオールカラー特製単行本」

 まず、絵本のような本のつくりであること。中間色を主潮にしており、一人で暮らす若い女の子の、さびしさ、心細さ、不安感、ちいさな喜びといったものを画くのに、ぴったりしている。全体が53ページという薄いつくりも、絵本らしいかわいらしさで、そうした「つくり」も「文化賞」の審査員に好感をもたれたポイントだったでしょう。

 自伝的な内容ということは、文学的ともいえます。どんな人の書いた自伝でも、回顧的な、つまり内省的部分では文学的になります。「マジ」になるってことですね。

 つぎに「絵本のような」というキャッチコピーについて。マンガ表現が通常使う吹き出しによる会話方法が、この作品にはほとんど使われていません。コマの中に占める絵と文字の割合がほぼ半々で、会話は「」(カギ括弧)で表現しています。ということは、絵ものがたり、と呼んでもいいようで、ますます文学的な性格を帯びた作品だと言えます。

 ものがたりは、田舎から上京してきた20歳の女の子が、居酒屋でもバイトからスタートして、コンパニオン、チラシくばり、交通調査と、つぎつぎやってみても暮らしが苦しく、おまけに、やさしいばかりで働こうとしないダメなボーイフレンドと同棲しちゃったから、まわりの女の子たちが、きれいな洋服を着て、ちゃんとした男性とデートしながら楽々暮らしているらしいようすをみて、あこがれの東京がしだいに嫌いになっていく。
 
 お金のために歌舞伎町でミニスカパブで働きはじめ、いろいろなタイプのホステスたち、さまざまな生活をしている客たちに、もまれながら、やがて自分がやりたかった「絵」を画く仕事にたどりつく。
 仕事とはいっても、はじめはエロ本のカットを画く仕事。それでもすきなことを仕事にできる自分のちいさな喜びで、「とてもとてもシアワセだった」と思う。あれほど嫌いになっていた東京に、「ありがとう」と言えた。
 
 ミニスカパブはやめることができたから、ついに、同僚のホステスたちによる「送別会」をしてもらい、「私は心の中で『お先に』と言った」。
 ひとりが淋しいからと、それだけの理由で一緒にいた、ダメな彼とも別れることになる。東京で、ひとりで生きていける自分になれそうだった。
 
 エロ本の4コママンガの仕事から、大手雑誌の連載ものが画けるようになる。毎日たくさんの仕事がくる。「いそがしいのがこんなウレシクてシアワセとは思ってもみなかった」
 つかれている人、かなしい人、くやしい人、それを全部がまんしているひと。そんなみんなにちょっとだけ笑ってもらえる、そんな仕事をやれる自分がうれしい、とすこし照れてはにかんだ自画像らしい絵でものがたりは終わる。
 
 つかれて、かなしくて、くやしく、がまんしていたのは、彼女自身だったわけで、自分と同じような気持ちでいるすべての「上京」してきてひとりで暮らす女の子たちへ送るエールなのです。
 
 この作品を読んで、僕わくわく亭は、これはマンガ表現による平成の『放浪記』だと思いました。林芙美子は『放浪記』で文壇デビューすると、そのたくましい仕事ぶりで、文壇の女帝となりましたが、西原理恵子さんはギャグマンガを武器にして、やがては文明批評の分野で特異な地位を占め、女帝と呼ばれるようになるかもしれません。そのとき、この『上京ものがたり』はひとつの記念碑的なマンガ作品として記憶されるでしょうね。