「埋門」評
わくわく亭が『別冊関学文芸』52号に発表した小説「埋門」が高い評をいただいた。
それは大阪文学学校の機関誌『樹林』2016秋号の小説同人誌評である。
筆者は細見和之氏で、現在大阪文学学校校長をつとめておられる方。以下全文を紹介する。
小説同人誌評 「書くことの意味」 細見和之
今回はベテランの作品に力作が多い印象だった。その代表は『別冊關學文藝』第52号掲載の、森岡久
元「埋門(うずみもん)」。江戸時代、中期の後半あたり、天明八年(一七八八年)に、江戸の日本橋小
伝馬町、小伝馬町牢屋敷で死罪に処せられた一組の男女の物語である。
女の名前は「おつる」。二十三歳のたばこやの女房であり、一方、男の名前は「庄次郎」で三十才あま
り。「牢抜け」(脱獄)した庄次郎をかくまったというのがおつるの罪である。堅気の女房であったおつ
るは、湯屋で窃盗の罪を犯し入牢する。そこで、やはり未決囚として入牢し、牢名主の立場にあった庄次
郎とほのかな出会いを遂げたのだった。
やがて「過怠牢」と呼ばれる五十日ないし百日の入牢ののち、おつるは娑婆に出るが、ある日、庄次郎
が見事に脱獄を果たし、たばこ屋のおつるに会いに来る。そこから二人のめくりめくような逃避行がはじ
まる。その二人のあとを、まるで踵を接するようにして北町奉行所の鋭敏な同心が追いかける・・・・。
四百字詰め換算百二十枚ほどの作品だが、どの場面もじつに生き生きとしている。しかし、この小説
はたんなるフィクションではなくて、実際の記録にもとづくもののようなのである。最初のほうに、語り
手「わたし」が伝馬町牢屋敷の平面図を見ていて「埋門」というものを見つけ、それが実際にどのような
門であったかを知ろうとしていくつかの文献にあたり、そのうちの一冊『牢獄秘録』のなかで、おつると
庄次郎の記録に出会った、と記されているからだ。ただしその記録はわずか二ページのものだったとい
う。そこから、他の文献や記録にあたることで、筆者はこの物語を綴っていったようなのだ。
牢屋のなかの制度と習慣、そこでの人間関係、おつるが従事していた当時のたばこ屋の様態、二人の逃
避行の道筋と奉行側の対応など、じつに克明で迫真的なのだ。
いや、ひょっとして『牢獄秘録』という記録書自体がフィクションかもしれないと思えてきて、イン
ターネットで調べてみると、国会図書館のデジタル・コレクションの一冊として、ダウンロード可能なの
だった。それを見ると、確かに「大宮無宿大次郎御仕置の事」という項目で、ここに描かれている二人に
ついての記述がある。分量は二ページ半。ただし、作中で庄次郎とされている名前は項目タイトルのとお
り「大次郎」であり、たばこ屋の女房のほうにいたっては、この記録では「名は逸す」とだけ書かれてい
て、実際の名前は登場しない。たばこ屋の女房のほうは名前までが忘却されている。実際、この「名は逸
す」の文字は『牢獄秘録』の記録を読んでいて、じつに切ない箇所なのだ。つまり、作者はその女房に
「おつる」という明確な名前を与えることで、二人の物語をあらためて復元したのである。
そこで獄死した無数の、文字どおり無名の死者たちに名前を与えること----。それはもとより、たん
に名前を具体的に付与することに尽きるのではない。何よりも、それはこのように物語ること、二人の生
涯にくっきりとした輪郭を与えることによって果たされるのだ。あらためて「埋門」というタイトルが強
い意味を帯びて迫ってこざるをえない。
無数の人々の、名前も事跡も埋めている門である。小説というものの意味を強く考えさせてくれる力作
だった。
それは大阪文学学校の機関誌『樹林』2016秋号の小説同人誌評である。
筆者は細見和之氏で、現在大阪文学学校校長をつとめておられる方。以下全文を紹介する。
小説同人誌評 「書くことの意味」 細見和之
今回はベテランの作品に力作が多い印象だった。その代表は『別冊關學文藝』第52号掲載の、森岡久
元「埋門(うずみもん)」。江戸時代、中期の後半あたり、天明八年(一七八八年)に、江戸の日本橋小
伝馬町、小伝馬町牢屋敷で死罪に処せられた一組の男女の物語である。
女の名前は「おつる」。二十三歳のたばこやの女房であり、一方、男の名前は「庄次郎」で三十才あま
り。「牢抜け」(脱獄)した庄次郎をかくまったというのがおつるの罪である。堅気の女房であったおつ
るは、湯屋で窃盗の罪を犯し入牢する。そこで、やはり未決囚として入牢し、牢名主の立場にあった庄次
郎とほのかな出会いを遂げたのだった。
やがて「過怠牢」と呼ばれる五十日ないし百日の入牢ののち、おつるは娑婆に出るが、ある日、庄次郎
が見事に脱獄を果たし、たばこ屋のおつるに会いに来る。そこから二人のめくりめくような逃避行がはじ
まる。その二人のあとを、まるで踵を接するようにして北町奉行所の鋭敏な同心が追いかける・・・・。
四百字詰め換算百二十枚ほどの作品だが、どの場面もじつに生き生きとしている。しかし、この小説
はたんなるフィクションではなくて、実際の記録にもとづくもののようなのである。最初のほうに、語り
手「わたし」が伝馬町牢屋敷の平面図を見ていて「埋門」というものを見つけ、それが実際にどのような
門であったかを知ろうとしていくつかの文献にあたり、そのうちの一冊『牢獄秘録』のなかで、おつると
庄次郎の記録に出会った、と記されているからだ。ただしその記録はわずか二ページのものだったとい
う。そこから、他の文献や記録にあたることで、筆者はこの物語を綴っていったようなのだ。
牢屋のなかの制度と習慣、そこでの人間関係、おつるが従事していた当時のたばこ屋の様態、二人の逃
避行の道筋と奉行側の対応など、じつに克明で迫真的なのだ。
いや、ひょっとして『牢獄秘録』という記録書自体がフィクションかもしれないと思えてきて、イン
ターネットで調べてみると、国会図書館のデジタル・コレクションの一冊として、ダウンロード可能なの
だった。それを見ると、確かに「大宮無宿大次郎御仕置の事」という項目で、ここに描かれている二人に
ついての記述がある。分量は二ページ半。ただし、作中で庄次郎とされている名前は項目タイトルのとお
り「大次郎」であり、たばこ屋の女房のほうにいたっては、この記録では「名は逸す」とだけ書かれてい
て、実際の名前は登場しない。たばこ屋の女房のほうは名前までが忘却されている。実際、この「名は逸
す」の文字は『牢獄秘録』の記録を読んでいて、じつに切ない箇所なのだ。つまり、作者はその女房に
「おつる」という明確な名前を与えることで、二人の物語をあらためて復元したのである。
そこで獄死した無数の、文字どおり無名の死者たちに名前を与えること----。それはもとより、たん
に名前を具体的に付与することに尽きるのではない。何よりも、それはこのように物語ること、二人の生
涯にくっきりとした輪郭を与えることによって果たされるのだ。あらためて「埋門」というタイトルが強
い意味を帯びて迫ってこざるをえない。
無数の人々の、名前も事跡も埋めている門である。小説というものの意味を強く考えさせてくれる力作
だった。